飛び降り自殺を決意するまでの、私の半生。




こんにちは、こんばんは。

自殺未遂から背骨をパキッと折って10年、白檀です。

先日、私が飛び降り自殺が未遂に終わり、それでもなんやかんや生きているというお話を投稿しました。
(リンク:自殺未遂で脊髄を損傷してから10年。それでもなんやかんやと生きている私

今日はその前の、「境界性人格障害」と診断され、体には不自由がなかった頃のことを書いてみます。

歩けていた頃…。タイムマシンがあったらいいのにな。

 

飛び降りまでの前半生

今は亡き、ひどいアルコール依存症だったけれど大好きな父、親が早くに亡くなり気上に振る舞い続けるけれど愛されたい母、随分と歳の離れた少しシャイな姉、私の子守りをする為に呼ばれた独身の叔母、この家庭に私は生まれました。

2歳にならない位の自分の写真を見ると、私はトコトコと歩き回り、満面の笑みです。
あまりに歩き回るので、母や叔母や父が私の襟首を笑いながら掴もうとしている写真がたくさんあります。
満月のようなまん丸の顔は、イタズラ心と喜びに満ちているように見えます。
その笑顔が消えるまで、それ程の時間はかかりませんでした。

母曰く、当時の我が家は「父を殺すか、母が殺されるか」という状態だったそうです。
母は「私と姉を犯罪者の娘にだけはしたくない」という想いでいっぱいで、父や母と過ごす時間はあまりありませんでした。

父は酒に酔うと本当にめちゃくちゃでした。
私が小学校高学年の頃には、酒を飲んだら死ぬと言われていたようです。

しばらくすると父は酒が飲めなくなり、母は蒸発し、姉は家を出ました。
私はボロボロだけど優しい父と、叔母に育ててもらうことになります。

幼い頃から私は、大人が大嫌いでした。
父の暴力、母の放任、「自分の娘じゃない」と口に出して言う叔母も好きにはなれませんでした。
「こんな大人には絶対にならない」と、毎日誓っていました。
それだけが、私のエネルギー源だったように思います。

その頃から「自分が自分から抜け出て、肩の辺りで自分本体を見ている」ような状態、いわゆる「離人」が始まっていました。離人症は本当に不気味で不安になる症状です。しかし、当時位小学生だった私には相談ができる大人が誰も居ませんでした。

誰にも不安を打ち明けられないまま、中学三年の頃に不登校が始まります。
…今思えば、家族がバラバラになってしまわぬように繋ぎ止める役割をしていた私は、相当の我慢と努力をして、疲れてしまったのだと感じます。

普通高校に進学するも、目標を見つけられません。
医療に携わりたいという気持ちもあったのですが、働きながら看護学校に行くような選択肢は選べません。そこまでの覚悟や自立心は、私にはなかったのです。
結局、高校を中退して働き始めました。

しかし高校を中退して働き始めると、今度は普通に学生時代を送るみんなが羨ましくなります。結局、もう一度受験をさせてもらい別の高校に入学し直しました。

それなりに勉強し、恋愛や部活に懸命でした。
初恋…この頃に先輩とお付き合いしたり、人を好きになることの喜びと、お付き合いをすることの難しさを学びました。

順調に青春を過ごすはずだったのです。

ある日、朝が怖くなりました。
また一日、頑張らなければならない
本当はもう、クタクタなんだよ
もう何もかも嫌なんだ。

やっぱり、不登校が始まりました。
もうひとりで頑張るのは、限界だったのです。

二度目の高校中退。
当時、自分では「怠けているだけなんだ」と思い込んでいました。
しかしメンタルクリニックにだけはに行こうと決めていました。

誰かに頼らなければ。
誰か助けて。

しかし通ったクリニックでもあまり良い主治医には巡り合えません。
少なくとも当時の私はそう思っていました。

私を分かってくれる大人は、やっぱりいない…
何だかもう、半分は意地ですね。
その反発心が災いしたのか、「境界性人格障害」という診断が下りました。
そして診断名のお陰で、医師からは敬遠され、私はますます孤立して行くことになります。

ある時、母が戻って来ることになりました。
その頃の私はもう、

「お母さんなんか大嫌い!」
「全部、お父さんとお母さんのせいよ!」
「私は生んでくれなんて頼んでないから!」

そんなふうに自暴自棄になりながら、リストカットを繰り返しました。
包丁で腕を叩き切る私に母は

「お母さんもつらかったの!お願い、お母さんを許して…」

と、泣き叫び私に縋りました。
しかし、私は母を許せなかったのです。

「お母さん、大好きなのに、なんで私をひとりにしたの?」

そう言葉にして伝えられていたら、私は今も歩けていたことでしょう。

 

飛び降りる直前の心の動き

一人暮らしの家から実家に泊まりに行った時のことです。
何もかもに行き詰まっていました。
仕事も、恋愛も、人生も。

当時、父の最期を看取った直後で、心に穴が開いていました。
今まで「どうしようもない父と、その家族の為に」私は生きていたのです。
それなのに、父が死んでしまった。
私は医療で父を助ける道に進めなかった。
もう、生きる意味なんかないし、生きていても苦しいだけ。
そう感じていました。
もう楽になりたい…

「お父さんに会いたい、お父さんと一緒に笑って暮らしたい」
お父さんが迎えに来てくれないかな、と思い始めました。

幼い頃から「死ぬなら何処で死のうか」と、死ぬ為の場所を探していました。
そして「その場所」は既に決まっていました。

その日、お付き合いしていた男性から電話があり、話していると、何だから下らないわがままを言われたのです。口論になり、私は呆れて電話を切りました。

「なんで私ばかりが分かってあげなきゃならないのよ。
なんで私に甘えてくるのよ。
私にばかり。
私だってつらいよ。
みんな、私にばかり。」

ーぷつんー

張りつめた何かが切れる音って、本当にするのですね。
あの日、私が飛び降りた日、私には確かに聴こえました。

もう、終わりにしよう。
そう決めて、携帯電話を実家に置き、私は「あの場所」に向かい歩いて行きました。

自分の足元を見つめ
「サンダル、赤だったなぁ…」
そんなことを思いました。

橋から落ちる時、私の横に愛猫の姿が見えました。
置いて行くの?
そう言われているようで、少しだけためらいました。
「ごめんね」
愛猫を、自分の人生を、家族を振り切って落下していくうちに、意識は無くなっていきました。

 

飛び降りたあと、現在の簡単な説明

救命救急に運び込まれた時、救急車の中で私は連絡先を聞かれたそうです。
そして答えたのは、私が生まれ育った家の電話番号だったそうです。
その番号は叔母が使っており、叔母から母へ連絡があったらしいのですが、その時、母は何かを感じて私を探し回っていました。

「○○(私)が携帯電話を置いたまま、どこかへ行くなんて絶対におかしい」

母はそう感じたそうです。

管轄の警察署から、刑事さんが自転車で母のもとへ走ってくださって

「お母さん、落ち着いて聴いてね。
娘さんは飛び降りてしまって、今は病院だからね。」

そう言われた母は、どんな絶望を感じたのだろう。

母が病院へ駆けつけても、私は肺に血が溜まってしまい、血液を抜く処置や気道の確保の処置中です。

救命の医師から告げられた言葉

「娘さんは歩くことは、もう出来ません。
ですが、命だけは助けることが出来ました。」

それも母には意味が理解できなかったそうです。

そう、命だけは助かりました。
肺の後ろにある背骨を折り、私はその日から今までとは違った生活を送ることになりました。

 

最後に

今では進行性の麻痺も発症していますが、幸い、こうしてスマホに文章を書けています。
話をすることも、今は出来ます。
ただ、脊髄の部分が肺を圧迫するようになれば、自分だけで呼吸することは出来なくなります。
徐々に悪くはなっていきます。

私が最初に「メンヘラ.jp」に読者投稿をしたのは
「私だから書ける何かがあるのではないか」
そう、感じたからです。

「死にたい」という気持ち、「消えたい」という気持ちは苦しく真っ暗闇でも、読者の数だけ打開策はあるはずだと、私は思うのです。
私のようにならなくても、解決できるはずだと私は信じています。

私は「死にたい誰か」の役に立ちたかった。
いや、そんなに大層なことは出来なくても、何ができるのか模索したかったのです。

多分、人は、誰かに頼り、誰かを支えて生きていく
そうして生きるんじゃないかと思うのです。

私だからできる何かがあるのなら、私はあなたの力になりたい
そう感じながら、今日も生きています。

少しだけでも、笑っている時間を忘れないでください。
死にたくて苦しいあなたは、今、生きているのです。
生きていれば、可能性はあるのです。

少しでも、皆様の日々が笑顔でありますように。

 


【投稿者】
白檀 さん

【プロフィール】
脊髄損傷から進行性の麻痺を発症。
いつかはスマホも使えなくなる可能性があるが、生きる人。
一応、主婦。
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