精神疾患と向き合い続けた僕が辿り着いた、たったひとつのサバイバル技術




初めまして、政宗と申します。
僕は短大卒業後、社会人一年目で統合失調症に罹患し、現在も治療中です。

それ以前は五歳の時から続いていた不眠、中学二年生~高校二年生までの間はリストカット、自律神経失調症、うつ病の治療を受けていましたが、それらは不眠以外に関しては高校二年生の時に治りました。

 

一九八七年八月十七日、午後二時二十二分、この世に帝王切開手術によって僕は産み落とされました。手術中、母の血圧が急低下し、私と母は生命の危機に立たされましたが、それも医師のとっさの機転を利かせた判断のおかげで母子ともに一命をとりとめました。

当時の母の年齢は四十歳の誕生日の一ヶ月前でで、体力的にもギリギリの出産でした。

僕が三歳の時、父と母がおそらく経済面のことで大喧嘩をし、その晩、僕は怖くて部屋から動けず、ずっとトイレを我慢していたので夜中にトイレ行こうとしました。

すると、いつの間にか真っ暗なリビングに母が立ち尽くしていて、僕にこう言いました。
「政宗、一緒に死のう。」
母の手には包丁が握られていました。
僕はしばらく考えました。
(死ぬってどういうことだろう、何も出来なくなるってお父さんやお母さんは言っていた。死んじゃったら公園で遊べなくなっちゃうのかな…それは嫌だな…まだ生きていたいな…)

僕は、「お母さん、僕はまだ生きていたいよ。」と思った通りのことを答えたのを覚えています。当時のことを母が語るには、「あの時、その言葉で私は正気に戻れた。」、そう言っていました。

あとから知ったことなのですが、実は母は私が生まれる前からうつ病を患っており、年齢と投薬が影響して更年期障害も入っており、その末に激しい夫婦喧嘩が重なり、僕と心中しようと思ったようです。

これが僕の最初の生き残り(サバイバル)技術の実践でした。

 

四~五歳の頃、眠る直前にある考え事が頭に浮かびました。

「自分はなぜ生まれてきたのか、なぜここにいるのか、『自分』を見つめているこの意識は何者なのか?そもそも僕は存在する必要はあるのか?」

という、誰しもが当たる人生最大の難問です。それを疑問に思った時から僕は夜眠れなくなり、この頃から不眠と、まだぼんやりとした希死念慮も持ち始めました。

幼稚園に入ってから、年少・年中・年長と受け持った担任ごとに変わった子供と言われることが多く、自分でも覚えている難しい質問は、「このひらがなという文字を考えたのは誰なのか?」や「時計の時間を決めた人は誰なの?」という質問でした。

そんな考え事が好きな性格が影響してか、いつもいろいろなことを考え込んでいる幼少期でした。

 

小学校に上がり、歳を重ねるごとに母の父への愚痴は強くなっていきました。

「お母さんがお父さんに対してこう思っているって伝えておいて。」
「父さんはこう思っていると伝えろ。」

という、奇妙な伝言ゲームのような展開が始まりました。
当然、愚痴を伝えた僕への風当たりは強くなります。

「お前はいつもお父さんの味方ばかりして。」
「お前はいつも母さんに言われるがままだな。」

そんな板挟みが苦しくて、苦しくて、当時は本当にしんどかったです。
当時は苦しすぎて、その影響で希死念慮が激しくなった小学三年生と五年生の時に自殺を図ったところ、ギリギリのタイミングで母に見つかり死に物狂いで止められ、未遂に済んだことがありました。

周囲の友達もこんなことで悩んでいるのかなとは聞き出せず、そのまま中学生になっていて、気がついたら中学二年生の二~三学期前後辺りからリストカットが始まっていました。
その時すでに一週間の睡眠時間は合計で二時間前後でした。

その人生に一度目の転機が訪れたのは中学二年生の大晦日です。
僕は年越しそばでアレルギーを発症し、それに気が付かずに深夜の初詣に出かけていました。
運良く、その場に居た友人が異常に気がつき、気がついたときには意識が飛んでいました。
曖昧な記憶で残っていたのは、彼らに引きずられるように運ばれたことと、まだ死にたくないという自分の本心でした。僕は彼らの助けのお陰で市内の病院に夜間救急に運ばれました。

翌日、アレルギー検査のためにその病院の小児科を訪れると、その時の担当医が小児神経科・小児心療内科も診ることができる医師でした。

のちに高校二年までの三年間の付き合いになるその主治医は、私の様子を見た瞬間、「君、眠れていないでしょ?手首の傷も自分でやったね?」と、真っ先に私の状態を見ただけで的確な、どストレートな質問をしてきました。

まだ思春期真っ盛りの僕は返事もせず、ただずっとうつむいて黙り込んでいるだけでした。
そして問診の結果、不眠・自律神経失調症・うつ病の診断を下され。私の治療が始まります。

一週間の間の一日の終わりから始まりまで、どのように過ごしていたかの生活リズム表をつける治療と、SSRIという種類に分類される抗うつ剤を高校二年生の終わりまで飲み続けました。

残念なことに治療は、三歩進んで二歩下がるようなペースで進んでいて、その間に自殺企図も図ってしまいました。そのことについては細かくは記しません。

 

高校二年生の終わりごろにうつ等は寛解しましたが、それまでの過程が大変でした。
鬱で体が動かない、だけど学校は楽しいから行きたい。このジレンマに板挟みになった僕は諦めずにもがきました。

朝、無理やり起きて、寝起きのコーヒーを一気飲みした後は鬱の症状で体が床に張り付けられたように動かせなくなります。しかしそれに無理やり抗ったのです。せっかくの生きている時間だと、僕は諦めませんでした。

「まだだ!俺の人生はまだ終わってない!」そう頭の中で叫んでいると自然と体が動くようになってくるのでした。そんな生活を続けていたある日、気が付いたら体も普通に動くようになり、自傷行為も止まっていました。

自傷行為を止めてくれた最大のきっかけは父がボソッとつぶやいた言葉でした。

「手首は刃物を研ぐためにあるわけじゃないよ、その傷を見ていろんなことを思う友人や家族・親族たちのことを少しは考えたことがあるのかい?」

しかし幼き頃からある希死念慮だけは消えませんでした。
楽しいことをすれば楽しく感じる、悲しいことがあれば悲しく感じる。
だけれども目に見えない心のどこかにむなしさを抱え込んでいて、彼(便箋上、希死念慮のことをこう呼びます)が僕にささやくのです。「もう諦めろ。」と。

ですが僕は諦めませんでした。
常に解決方法を探っていたのです。
高校三年生の八月頃に僕は同じ総合病院の、今はもう無くなってしまった精神科を訪ねました。
三十分ほど、私は医師に自分の死生観や希死念慮のことを話し、それが終わったあとに小児心療内科時代のカルテを見終えた医師がこう言いました。

「君の症状は確かに病気だ、君自身、小児うつのハシリの世代だと思うよ。」
「ここではそれを治すための高度な治療は施せない。お役に立てれず、申し訳ない。だが、ここまで生き延びてこられたあなたは立派だ。いつかその経験が役に立つ時がきっと来ると思う。それまでどうか生き延びてほしい。それを信じて生き延びてほしい。それが私の願いです。」

(そうだ、いつかこの「なぜ生きるのか?」という問いを持ち続けた経験が、たとえ答えが出てなくても問い続けた経験が誰かの役に立つ時が来る。)
そういう確信をその頃から持つようになりました。

そして短大に入学、短大二年のときには同じ研究室に元カノが二人もいるという気まずい状況を作り出したりと、色々と話題に事欠かかないエキセントリックな短大時代でした。
二〇〇八年三月に卒業。研究室の教授が紹介してくださった会社に就職しました。
しかし、四月の就労からいきなり毎月残業時間が過労死ライン超えの日々が待っていました。

最初の異変に気付いたのは六~七月ごろでした。
会社に行くために駅まで向かうと、次第に手足が震えてくるのです。そして満員電車に乗ると呼吸困難を起こしたりもしました。明らかに何かの精神疾患だと思われる症状が出始めてきていたのです。そしてちょっとしたことでもすぐにイラつくようにもなりました。

いつごろからか、気がついたら視界のすみに黒い影が見えたり、常に頭の中で声が聞こえるようになっていました。その声の言っていることを要約すると、「お前は仕事もろくにできない無価値な人間だ、今すぐ死ぬべきだ。」という趣旨の内容でした。

ある日のことです。

最終の電車を待っている間、私は駅の端にある喫煙所で煙草を吸いながらこのまま電車に飛び込もうかと悩んでいました。幻聴と希死念慮に負けかけていたのです。ホームの先端に立って、飛び込むイメージトレーニングをしていました。

すると反対側のホームから視線を感じました。そちらを見てみると同じ部署の課長がこちらを心配そうに眺めているのです。とっさに正気に戻り、その場を後ずさりし、その直後に来た最終電車に乗り込みました。

このままだと確実にいつか死んでしまう。
そう思った僕は翌日、半ば強引に有休を取得し、地元の大きな精神科を訪ねました。
診察予約を事前に取っていなかったため門前払いされそうになりましたが、何とか診察を受けることができました。

その時の医師が現在の主治医です。
主治医さんはその場で休職用の診断書を出してくださりました。
初期の診断名は神経衰弱状態と、うつ状態と記されていましたが、私の中では統合失調症なのだろうな、という確信はその時点で既にありました。

通院してから半年ほどたったころに、正式に統合失調症の告知を受けました。
ここからは二〇〇九年一月の退職から現在に至るまでの流れをざっと書いてみようと思います。

休職期間が満了になり、解雇か自主都合退職かどちらかを選択してくれと会社の人事部長から告げられました。その時、部長の口から「労災にできるけれど、どうする?」という言葉が出てきましたが、疲れ切っていた私はその提案を蹴ってしまったのです。そして自主都合退職しました。

これを読んでいる皆さんの中にも、似たような状況で労災にするか悩んでいる方がいると思います。こればかりは断言します。

「絶対に労災にして、損害賠償請求をした方がいい。」と。

残業代がフルに出る職場だったので貯蓄は多少あったし、会社の保険から傷病手当金も貰っていたので何とかやりくりは出来ていました。ですが、精神科の薬は意外と高いのです。貯金はガンガン減っていきました。

僕自身、初診時から何度も主治医から入院を勧められていた状況でした。
しかし通院している病院は入院に二十万円の保証金と、食事込みの医療費が毎月二十万円ほどかかるという説明を病院のケースワーカーから受けており、後述しますが、我が家の家計ではマイナスが出るという状況でした。

何度も医師と詰めた相談をし、発病してからの約二年間、自宅入院という造語のもと、自宅で入院という言葉に分相応の量の服薬で治療しました。

お陰で初診から半年~一年間はほぼ寝たきりでした。
身動きが取れず布団に横たわっていると幻覚・幻聴が襲い掛かってきました。
過去の自殺企図を起こした自分が年代別に枕元に並んで立ち、私に語りかけるのです。

「だからあの時死んでおけばよかったのだ。」
「死ぬことすらできない軟弱者。この生き恥さらし。」

とてつもない恐怖で僕は寝たまま失禁してしまったことが何度かあります。

 

しかしそれでも、なんとか生き延びる手段はあると僕は諦めませんでした。

貯金も尽きかけていたころ、病院のケースワーカーのすすめで障害年金というものを申請しました。これは通院して一年半が経つと申請できる年金制度です。

申請してから待つこと五ヶ月後の二〇一〇年一〇月に、やっと申請が通り年金証書が届きました。障害等級は二級でした。

厚生年金にも加入していたので、障害厚生、障害基礎年金も受給できることになりました。そしてその時点で、発病してから約二年の時が経っていました。

僕は障害年金の申請日から、証書が届く五ヶ月間分の年金で入院する決意をひそかに固めていました。しかし当時は以前から危うかった父の自営がとうとう破産状態になり、私の両親は実家を売り払い、自己破産する算段が付いたところでした。

その折に自分が入院する前に心残りだった、数ヶ月前から続く母の体調不良の原因を突き止めるため、母のかかりつけの病院に検査へ行きました。

まずレントゲン検査の結果。写真を見た時、僕は衝撃で息を飲みました。
僕は肺炎になった事があるのだけれど、だいたいレントゲンでは肺炎の影はぼやけて見える。しかし母の肺のレントゲン写真にはくっきりとした影がありました。

僕たち家族と二十五年来の付き合いがある院長先生が、柏にある国立がんセンター東病院のパンフレットを出すと「ここに予約の電話しておきます。紹介状と資料の準備をしておくのですぐに行って下さい」と言われました。

 

その時点では腫瘍は悪性のものであるか良性のものであるかは判別出来ないとも言われました。
しかし、腫瘍の大きさや自覚症状が問題でした。肩痛や胸痛があり、痰はまだ血痰にはなっていないが、状態から見るに限りなくクロに近いグレーゾーンを臭わせるもの。

二〇一〇年十月二十一日
国立がん研究センターで母の胸部を精密検査した結果、肺に二~三センチの腫瘍と、胸部リンパ節への転移が認められました。そして母が入院。結果は……肺腺がんでした。

通っている精神科の主治医から「お母さまの告知を聞くと、かなりのストレスになりますよ。」と言われましたが、実際その通りでした。

もしメンタルの病を抱えている方で、ご家族が何か大病をされた時、その告知を聞くのはご家族であるあなた自身の自由ですが、僕は自分の経験からあまりおすすめはできません。

事実に立ち向かえるという確信があれば、聞いてもいいとは思いますが、それでもショックはでかいです。

そして一通り治療を終えた二〇一一年一二月に母が退院、今後はリンパ節から別の部位への転移がないか調べるために月1で定期健診を受けることになりました。

そして時が来たと思った僕は家族に自身の入院の件を切り出します。
しかしタイミング的に家を引き払う直前で、母は入退院の繰り返し、父は廃業、自分は精神的にボロボロという三重苦の状況下で三者の話はこじれ、気が動転していた父の「入院するくらいなら一人暮らしでもして自立してくれ。」というとっさに出た発言がきっかけで家族全員を巻き込んだ小さないさかいまで発展し、その言葉通り自力でひとり暮らしをする流れになりました。

ちょうど主治医と相談しながら本で読んだ「森田療法」という認知行動療法を実践していたところで、一定の家事スキル等はあったのです。そして地元の精神障がい者地域生活支援センターのケースワーカーさんにアポ取りをして相談しに生きました。

そのケースワーカーさんから、「同じ市内の別の支援センターが『居宅支援(障害者が賃貸契約をするための支援)』というものを行っている、餅は餅屋だ、今すぐ相談に行こう。」と言われ、その支援センターに向かいました。トントン拍子で賃貸契約が成立。
そして二〇一一年三月十一日、新居に荷物を運び終えた日に東日本大震災に直面しました。
幸い、実家を処分するまであと一月猶予があったので、三月二十三日まで当時の実家で過ごしました。

そして三月二十三日に新生活開始。
荷物をすべて運び終える。
一息つこうと思い、近くの自販機で缶コーヒーを買って一服。

帰宅

僕「ただいま。」

「………………………………」

計画停電で部屋真っ暗。真っ暗になった部屋に響く返事のない「ただいま」
孤独感で発狂しかけて大泣きしました。

年金は隔月偶数月に支給で、厚生年金込みで月割りにすると約十万円。
家賃・光熱費・食費・諸々の出費で約八万円が消えていき、それでも細かい出費が重なり続け、貯金する余裕などもなく、毎月がぎりぎりの生活でした。

時折、母が僕の部屋に泊まりがてら遊びに来たり、その逆もあったりの日々でした。思い出づくりの為のようなものでした。

母は引越し後、あの小さないさかいが原因で離婚し、払えないガンの治療費のために生活保護受給の申請をして生活してと、波乱の1年でした。

今まで携帯電話を持ったことがない母に、僕は携帯電話を買ってあげました。
ある日、知った事なのですが、その日から母は、ちょくちょく未送信メールに、「天国にいる父さんと母さんへ」という題でメールを打っていたそうです。その都度全部消していたため、見ることはかなわないけれど。

母の両親、祖父と祖母は十数年前にこの世を去りました。
その両親にどんなメールを送ったのかは、今でも気になります。もう知ることも出来ませんが。

母は治療の影響で食道が狭窄してしまっていて、胃にチューブを通して(いわゆる胃ろう手術というものを受けて)栄養剤を点滴して生きていました。物が食べられなくなる苦しみは想像を絶するものだと思います。

「私が食べられない代わりに、お前が食べてくれればいいんだよ」と、母は言っていました。
そして家に泊まりに行ったり、逆に泊まりに来たりするたびに母は手料理をふるまってくれました。母の作る料理はやっぱり一番美味しいです。

五年生存率十五~二十%…十人いても二人か、上手くいっても三人しか生き残れません。母は常に言っていました。「お前の病気の行く末を見届けなければ、死ねない」と。

どうしよう、まだ何にも親孝行出来ていない。
癌になり、亡くなった自分の両親にメールを打ち続けていた母。どんなに心細かったか。
自分は何もできてない。情けなくて涙が止まりませんでした。

二〇一二年八月の終わりごろ、母が高熱を出しました。二十六日だったと思います。
その日のうちに地元の病院に入院が決まりました。

当時、僕の精神的ストレスも最高潮に達していて、何を食べても吐いてしまい、1日にバナナ1本しか食べられない状況でした。それが幸いしてか、最寄り駅から母の入院先の病院最寄りまでの往復料金の確保は出来たのでほぼ毎日お見舞いに行きました。

医師の説明によると、肺の中に水のようなものが溜まっているところまでは分かったけれど、あとは針を刺して、水なのか、膿なのか判断するしかないと言われました。そして激痛が胸にはしっているらしく、もう医療用麻薬を使うしかないとも。そしてもって二~三週間だとも。

お見舞いに行くごとに意識が朦朧としていく母。見ているだけでもとてもつらかったです。
そして母が亡くなる三日前、完全に意識が混濁している母をお見舞いし、帰ろうとした時です。
「母さん、もう帰るよ。」
そういって母の胸元をポンポンとたたいた瞬間、母が正気に戻りました。
そして僕の手を自分の首元まで近づけると、母はこう言ったのです。

「……このまま、殺してちょうだい、お願い、すごく苦しいの。」

五秒くらい悩みました。

「…ごめん母さん、僕には出来ない。恨んでくれてもいい、ごめんよ。僕にはできない。」

「お前は親を見殺しにするつもりか。許さない、許さないからね、呪ってやる。一生、死ぬまで悔やんで生き続けたらいい。」

泣いている母を尻目に、私はその病室を後にしました。
そして三日後、一人暮らし開始から1年と約七か月後の二〇一二年一〇月一五日に母が亡くなりました。朝方三時五十分に病院から電話があり、母の心臓が停止したとの連絡が入りました。

「心肺停止状態ですが、延命措置はどうしますか?」

「しなくていいです、それが母の希望だったので。」

「今から自転車でそちらに向かいます、1時間ほどかかるのでなにとぞご了承ください」

「わかりました、お待ちしております」

病院に到着し、病室に通される。
母の額に触れる。
まだ暖かかった。

時間はすでに朝方五時ごろでした。
急にお腹が空いてきたので、看護師に席を外す旨を報告し、近所のコンビニへ行きました。
コンビニエンスストアで買った大盛りのペペロンチーノを、コンビニのベンチで食べる。

きれいな朝焼けを見て、「ああ、僕はまだ生きているんだな…生きるってこういうことか。要するに諦めないってことなんだろうか。」と訳の分からない感慨にふけっていました。

葬儀も合同墓地への納骨もあっという間に終わり、しばらくは抜け殻のように過ごしていました。

亡くなる前日にお見舞いに行けなかったのが最大の悔いでしたが、母の友人がお見舞いに来てくれていたようで、その方から最後に何を言っていたか聞くことができました。

「数日前にあの子をとても傷つけることを言ってしまったの…でもあの子はきっと大丈夫、強い子だから。きっと大丈夫。」

その言葉を聞いて私は安心感と同時に深い悲しみのようなものを感じました。
弱音を言ったのは亡くなる三日前のあの時くらいで、最期の最期まで、気丈に振る舞い続けた母に対して深い後悔のようなものを強く感じたのです。

母の遺品整理をしていると、引き出しの中から遺書が出てきました。亡くなる一年前に書かれたものでした。

【政宗様
感傷的にならないよう意識して要件のみかきました。
政宗とは会話をたくさんしたからね。

今はまだ書く気持ちは無かったのですが、やはり書き残しておきます。
政宗を苦しめてしまうことを書いてしまうかもしれませんが母さんの心よりの便りと思って読んで下さい。万が一、母さんが他界したらしっかりと読んで下さい。ほかの人には何も書き残しません。政宗宛のみです。

財産も何もないけれど税金未払いとか負債がきたら、すべて相続放棄して下さい。博道叔父さんに相談して下さい。そして、骨になっても入るお墓がないので、できれば行政の許可がおりたら山か海に散骨してください。唯一の希望です。

とりあえず、どこかのお墓にとかは絶対にしないで下さいね。
母さんは癌になった時からすでに死にたいという気持ちは有りました。もう長生きできない……それも解っていました。最後の時間は自分一人の時間を持ちたかったからです。

お金の苦労も、○○さん(父)との生活も限界まで来ていました。本当にもっと早くこうなっていたら(自由になっていたら)と今は思うばかりです。○○さんには迷惑をかけたかもしれませんが私は精一杯でしたので何の後悔もありませんでした。

政宗にとっては父親で有る事はずっとです。又、いつかは笑って話せる様になれるといいですね。母さんが居なくなっても、政宗は大丈夫だから、母さんの事、悩むことなく自分の幸せを必ずみつけてくださいね。

政宗は芯のある子、心の強い人間と思って接してきたから、母さんには解ります。
絶対、自分の手で幸せをつかみとって下さい。

政宗の姿も見られなくなる事は想像を絶する以上、悲しい事ですがこれも仕方ありません。
高い空の上から、高い山の上から、政宗の周りのどこかで、母さんは政宗を見守り続けます。
強く生きてね、自分に負けないでね。来世また会えるといいね‼
政宗へ     母 雅子 より
平成23年6月16日】

原文ママ

その後は母に対する後悔の念や、それまでの人生の後悔などで精神面は暗闇に包まれていました。荒れる生活、完全に負のスパイラルへと突入です。

しかし、そんな荒んだ生活もいよいよ佳境へ。昼夜問わず押し寄せてくる不安感との闘い。しかし僕は決して諦めませんでした。

金銭的な安心感を得るために、二〇一三年の七月にとうとう生活保護の申請に行く結果になりました。保護費は年金の額をひいた三万円。これで月あたりの収入が十三万円に。

しかし、僕は自己嫌悪のスパイラルに陥りました。希死念慮も増し、いつ死のうかと考え続ける日々が続いていました。同時に生活もさらに退廃的になっていきました。

しかし、親族にアルコール依存から統合失調症を発病し、同じように生活保護を受けていたけれど結果的に孤独死をした人物がいることを思い出すと、このままでは自分も同じ孤独死の道を辿るという考えが起こり、危機感を感じました。

すぐに、「このままではいけない、なんとかしなければ。」と考えを巡らせました。

それから間もないある日、あまりにも体がだるく、体調がすぐれないため(そんな生活を送っていたら当たり前なのですが)、家族ぐるみで幼少期から付き合いのある地元の整体師さんのもとを訪ねました。

体のズレを見てもらい、施術してもらって体のだるさをとってもらいたい旨を伝えたところ、家族の事情を知っている先生からこう言われました。

「君の骨格の状態なぞ見るまでもなく悪いってわかるよ、見たところで施術してもすぐに体調が悪くなってしまうのがわかる。そんな意味のない施術を僕はしないよ。」

「そもそも君自身の行いからして間違っている。些細ないさかいで一家離散になった原因は被害者面をしている君にもあるのだよ。もう一度よく考えてお父さんと和解しなさい。そして一緒に暮らした方が良い。ちゃんと考えるんだよ、キミは考え事が得意なんだからね、信じているよ。」

そのアドバイスが胸に突き刺さり、考えぬいた一ヶ月後に父と和解し同居を決め、保護も打ち切り現在に至ります。

私自身の社会復帰への道のりはまだまだ遠いですが、それに向けて週二日、精神障がい者向けの作業所に通っています。

母が、がんと向き合いながら、亡くなる前に自分の心の弱さと向き合い、それを認めたように、私は自分でできる生き方を模索しながら、できることを一つずつ実行している最中です。

なぜなら、

「僕はまだ生きていたい。」からです。

これが僕の持つたったひとつの単純なサバイバル技術の根幹です。

これまでを振り返ってみると、今の僕が存在するのはいくばくかの友人や家族たちに支えられてきたおかげです。その根幹にあるものは、僕自身の諦めない心と、それを信じてくれた人が少数でもいたという事実だと確信しています。

何を言いたいかというと、諦めたらそこで終わってしまうんです。自分は病気だと認めた上であらがい、もがく。それはこれを読んでくださっている他の方には、何があっても絶対に諦めないというのは厳しい生き方かもしれません。すぐには応用できない理論やノウハウもたくさんあります。

ですから、自分の病のことについて考えることに疲れた時はしばらくの間、頭を空っぽにして休憩してもいいと思います。でも、絶対に諦めないで生きる方に賭けてみてください。ほつれた糸がぱっとほどけるように、きっと道がひらけるときがあります。

今、この長ったらしい自分語り話を読んでくださった皆様の存在にも感謝です。
僕の話が皆様の何かの参考になれば幸いです。


【投稿者】
政宗 さん

【プロフィール】
鬱と自律神経失調症と不眠と自殺未遂を経験し、現在統合失調症の治療を受けている29歳です。twitter : @b3masamune


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