汚部屋だからこそ生きやすい? 清潔へのこだわりについて考え直した結論




こんにちは。これまで何度か文章を掲載していただいている広尾蘭です。

今回は「清潔」ということについて書きたいと思います。

自分は、実は綺麗好きだと自覚しています。可能なことなら清潔な環境で暮らしたい。そう願っています。しかし、そんな自分の清潔へのこだわりが、果たして生きやすさにつながっているのか? と最近疑問に思うようになったのです。

 

メンヘラだけど清潔でいたい!

清潔な環境で暮らしたい。

そんな願いを叶えようとして、叶ったり叶わなかったりする自分。でも、そんなことに一喜一憂せずに、散らかっていたり汚くても楽に生きている人も多くいます。

必要以上に物を溜め込む。食品の多少の賞味期限は気にしない。犬が部屋でおしっこをしても適当に拭くだけ。ベランダに洗濯物を干しっぱなしにしてクローゼット代わりにしてしまう。

これまでに人生で出会った、必ずしも「片付いた部屋」や「汚れのない環境」にこだわらない人たちは、そういう部分を捨てることで人生が楽になっている気がしたのでした。要求レベルが低いことで、清潔さとか掃除とか片付けとか、そういうことへリソースを割かずに済み、他のことに振り向けることができている。少なくとも自分はそんな印象を受けました。

 

清潔に目覚めた自分

対して、自分はどうでしょうか。

私は発達障害です。診断上は自閉症スペクトラムですが、かつて10代の頃までは、インテリアなどに興味はまったくなく、むしろ部屋中に好きなものを溜め込んでいた、ADHD気質な子供でした。秘密基地のような部屋に住みたいと思っていたくらいです。

しかし、大学生のときにインテリアにこだわる友人に出会い、インテリアの基礎を教わったことで、片付けや清潔さへの志向が大きく変わりました。物の質を大事にし、最低限のものしか持たない生活を志向するようになったのです。

これだけならば、ADHD気質の発達障害者が掃除や片付けに目覚めた成功譚かもしれません。しかし、悩みはそこから始まりました。

まず問題となったのが親でした。とくに母親は物を無尽蔵に溜め込む人で、自分がインテリアに目覚めて以来、ことあるごとにぶつかり合うようになったのでした。そして、ADHDを持った恋人と付き合ったときには、彼女の限界すぎる部屋を見て将来を悲観したことが別れる原因になりました。

何より辛いのは、清潔な部屋に住むことを志向している人が周囲にとても少ないことです。

自分自身生活が不安定な中で、さまざまな場所を転々としてきました。居候したり、住み込みをしたり、転がり込んだり。そういうすべての環境において、住環境が自分の基準において限界レベルに汚かったのです。

社会階層の問題と言ってしまえば身もふたもないですが、ある一定レベル以下の生活レベルにおいて、清潔さに無頓着な人は多数派なのだということに気づいたのでした。

 

「清潔でないからこそ生きやすい」というコペルニクス的転回

しかしあるとき、はたと気づきました。それは、とくに清潔な暮らしに興味がなさそうな人たちが幸せに暮らしているということ。

仕事も満足にフルタイムにできない自分は、もしかしていたずらに清潔にこだわるばかりにメンタルを悪化させていたのではないか。思い煩いを増やしていたのではないか。自分は強迫性障害でこそないですが、もしかすると、生活レベルに対して度を越したこだわりを持つばかりに、生きにくさを増してしまっていたのではないかと思ったのです。

その証拠に、自分が出会った「部屋が汚い人」はみな、人生をそれぞれにエンジョイしていました。

確かに社会一般で多数派に属する、上場企業で新卒から勤めているような人はいません。しかし、部屋は汚いが会社経営者。部屋は汚いが敏腕プログラマー。部屋は汚いがアーティスト。そんな、部屋は汚いが無茶苦茶なハイレベルの能力と人間的魅力を持った人がそこら中にいるのでした。

それに対して自分はなんなのだ。部屋をきれいにするスキルはあっても、他になにもないじゃないか!!

そう気づいたことで、もしかすると、ある種の無頓着さは総体としてクオリティ・オブ・ライフの向上をもたらすのではないか、と思うようになったのです。

これは生活の清潔さだけに留まらず、あらゆることについていえることだと思います。ある種の無頓着さを持つことで生きやすくなる。こだわりを捨てることは楽な人生への入り口だと気づいたのでした。

もちろん、とはいっても自分が暮らす部屋はある程度、物が少なくて片付いていることを志向することに変わりはありませんが……。また、度を過ぎる無頓着さは周囲に迷惑をかけることもまた事実です。

 

周囲に迷惑をかけないことばかり考えていた自分

私は昔から、普通になりたい、周囲に迷惑をかけない人間になりたい、といったことばかり考えていました。

もしかすると、自分が部屋をきれいにすることにこだわり、清潔ではない人を受け入れがたく思ったのも、清潔で片付いた部屋を維持することが普通である、迷惑をかけないことにつながると考えたからかもしれません。

しかし、結果として私は私生活で周囲に迷惑をかけ通しています。

生きている限り迷惑はかけるもの。そう開き直って、自分自身のこだわりと折り合いをつけていくことが生きやすさにつながるのではないか。それが自身の清潔への志向を通して考えたことなのでした。

ちなみに、自分の片付けや掃除の能力をなんのために使うかとしたら、部屋が汚い人のサポートにほかならないでしょう。部屋をきれいにすることには、物を捨てて、物の総量を減らす行為がつきまとうため、片付けや掃除のサポートは容易なことではありません。

それでも、ある程度の部屋の汚さは生きていくための潤滑剤と割り切り受け入れることで、生活環境のアドバイザーたりうるのではないかと思ったりもします。

 


【投稿者】
広尾蘭 さん

【プロフィール】
自閉症スペクトラムの診断を受けています。 文章を書いたり、何かを作ることが好きです。 江戸時代に生まれたら村一番の鍛冶屋になっていたと思います。
twitter : @hirohran


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