機能不全家庭で育った過去を、対人援助職の仕事で活かそうとして失敗した話




私は、機能不全家庭育ちの女性です。いろいろな生きづらさを抱えていますが、受診していないので、診断は付いていません。

傷付いた過去を活かそうとして仕事に就き、失敗した話をしたいと思います。

 

両親の問題で、母は頻繁に死にたいと言ったり実際に自殺しようとするそぶりを見せたりしました。私は2人の妹がいる長女で、母は私をカウンセラーのように、愚痴の受け皿にしていました。

小学校高学年からクラス内にいじめが起き、私もそのターゲットになりました。母に相談しようとしたら、母は激昂して「そんなことくらいなんなの!学校は一時的な場所だから楽でしょ!お母さんなんてね……」と、母の方がどのくらい辛いかの愚痴垂れ流しが始まるだけでした。

母への同情や共感が不十分な罰として「今からお前の人生を終わらせてやる」と言われ、「それだけはやめてください」と懇願することも何度もありました。そんな家庭なので、小さい頃から、他の子どもたちと自分が違うことは分かっていました。ただ、どうして違うのか、どうしてこんなに苦しいのかは分かりませんでした。

高校生のころ、図書館で機能不全家庭について書いた本に出会い、私が苦しい原因はこれだ、と理解しました。理解したことで、わけが分からない戸惑いはなくなりましたが、苦しいことに変わりはありませんでした。

大人になってからも、過剰に他人に支配されてしまい、人と会話が難しい性格、不安や恐怖が抜けないこと、不眠など、たくさんの支障を抱えていました。

 

そんな私は、人よりも傷付いた分、傷付いて損をしてきた分、この経験を活かせる仕事に就きたいと思いました。そのため、ある対人援助職に就きました。

仕事を始めてみて、最初は天職だと思いました。なぜなら、私はどうやらほかの同業者よりも被援助者に手厚く支援できるからです。何に困っていて、それがどれほど辛いことか、理解ができるし共感できるからです。心の底から被援助者に寄り添い、尽くすことができるからです。

「どうだ!」と思いました。

私を虐待してきた親や、恵まれた環境に居ながら私を見下してきた幸せな人々に向かって、大声で言ってやりたかった。どうだ!今まであなたたちには山ほど傷付けられてきたけれど、私はそれを克服してるし、克服だけじゃなく仕事に役立てているぞ!

見返せるかもしれないと思いました。そして、自分自身が慰められると思いました。無駄じゃなかった、沢山の理不尽や苦しみや今も続く生きづらさも、無駄じゃなかった。

だってそうでしょう。

「死にたい」と言っている人に対して、死にたいなんて思ったこともないし想像もできない人が関わるよりも、今なお現在進行形で「死にたい、死にたい、死にたい」という言葉が頭の中で止まらないのに、それを克服して働いている私が関わった方が、どれほど相手の気持ちが分かるか。どれほど役に立てるか。

私は天職を見つけたんだ、傷付いてきた過去を乗り越えるんだ、と思っていました。

他の同僚はそこまでしていないことは分かっていました。「えーっ、そこまでやってあげるのー?」という周囲のコメントには、苦しむ人をないがしろにする冷笑・嘲笑すら感じ、「こうやって幸せな人が苦しむ人間を見捨ててるんだ!」という怒りがまた原動力になりました。

 

しかし、だんだん調子が崩れてきました。

まず、被援助者から私への対応が、他と違うことに気付きました。私の仕事ではないところまで要求され、感情をぶつけられ、それに応えないと「裏切られた!」と言われる。他の人には怒鳴らない人が、私には怒鳴ってしつこくつきまとう。他の人の前ではまともな大人が、私にだけは「できないできない、 やってやって」と地団駄を踏むようにわがままを言い、それに何時間も取られてしまう。

そこで気付けばよかったのです。しかし私は、「これは乗り越えなければならない壁だ、逃げてはいけない」と思って歯を食いしばりました。ここで負けたら「そこまでやってあげるのー?」と冷笑してきた幸せな人々に「ほらみろ」と言われるようで悔しくもありました。

更に、「幸せな人はオイシイところしか関わらないから、そのせいで本当に支援が必要な人が私のところに集まるんだよ!ほんっとにずるいなあ、幸せな人は負担を逃れてまた幸せに生きてる。ずるいなあ。負けるもんか」という気持ちもありました。

そうやってがむしゃらに努力するうちに、数年が経ちました。

より丁寧なケアのために時間を惜しまず、休日は年に数日。生きづらい自分はそのままで、どんどん疲労していました。

 

いつしか私は、「弱者」を激しく憎むようになっていました。

どうして彼らは、私が他の人とは違うスペシャルな労力を割いていることに感謝しないの?感謝どころか「足りない」というの?

私だって苦しいのに、私も苦しいから分かるからより丁寧に支援したのに、彼らはどうして「もっと」と要求するの?どうしてそんな酷い要求ができるの?

私のことは誰も助けてくれなかったのに、どうして目の前の人たちは、「弱者です」と言って私の目の前に現れるだけでサポートを受けられるの?

どうして、あの人の「苦しい」は配慮されて、共感されて、大変だったねと慰められて、 それなのに私の苦しみは誰にも認識されず、無かったことにされているの?

私は他人のケアばっかりして、休みもほとんどなく疲れて、「嬉しい」とか「楽しい」とかの感情さえ無くなってずっと「死にたい」と思っている。私は何のために生きているの?

…そうか、あいつらが悪いんじゃないか!

あいつらが頑張らないから!すぐ「できない」って言って人にやらせようとするから!頑張らずに問題を放置するから!感情を抑えられずに他人に面倒を見てもらおうとするから!努力もしないで他人にどうにかしてもらうのが当然と考えているから!だから私がこんなに苦しむんだ!

そう思いました。

そう思いながらも、「面倒見の良いアキさん」の仮面を今更脱げず、周りから 「そんなにしなくてもいいのに」などと言われながらいい顔をし、共感的な台詞を吐いて、心の中で怒りを燃やしていました。

 

ちょうどそのころ、持病のぜんそくがひどくなり体調を崩して、仕事を辞めました。

それから3年が経ちますが、今もまだリハビリ中です。リハビリというのは、正常なものの見方です。

仕事をやめ時間が経ったおかげで、多少、ものの見方が改善されてきました。でもまだ、ときどき、前のゆがんだ感覚が顔をもたげてきます。

ここ「メンヘラ.jp」を読むと、みんないろんなことと闘っているんだなと思います。でも時には、昔のゆがんだ見方で「いいよね、自分は苦しいと大声で語れる人は。苦しいとアピールできるなんて強者じゃん」という思いがよぎります。ごめんなさい、ゆがんでいることは分かっています。まだまだ、まだまだ、時間が必要そうです。

このサイトをご覧の多くの方は、他の人にはない苦労やつらさを経験されていると思います。健康な人にはぴんとこないことでも、ここの読者の方なら「わかるわかる」と頷けることも多いでしょう。世のマジョリティには無い苦しみを経験すると、それだけ、分かることが増えるのも事実だと思います。

そして、「苦しみを克服して人助けなどに昇華する」ということは、一般的には奨励されることなのかもしれません。

私は、それを目指そうとして失敗をしました。

足りない自己肯定感を「苦しんでいるからこそ分かる、できることがある」で埋め合わせたいと思ってしまっていたことに気付きました。そのせいで、本来ならお互い労り合えたかもしれない人を憎むような、ひどいゆがみを持ってしまいました。私は、顔で笑って心で憎んでいたつもりでしたが、無自覚の言動で人を傷付けたこともあると思います。

今、振り返って思うことは、まず自分が回復するのが先だったなということです。自分のケアはとても難しく、今でもどうやったらいいのか分かりませんが、模索していこうと思います。

ここへの投稿をすることも、自分のケアの一歩です。他の読者さんと同じように、私も自分のことを語ってもよいということを経験するためです。こうやって文章を書きながらも、びくびくそわそわしています。

「他の人から見ればお前は語るに値しない」とか、「働けてたなら苦労してないじゃないか」とか、そんなことを言われるんじゃないかと、勝手に妄想が広がってしまいます。妄想ではなく、本当にそう思う方もいらっしゃると思います。

でも書きました。自分も書いていいんだと思ってみたかったので書きました。

「自分もやっていいんだ」と思えれば、次は、「他の人がこう言ったり書いたりしていることは、別に、弱さや苦痛をひけらかしているわけじゃない、ただ思ったことや経験したことを書いているだけだ」と思えるようになると思います。

 


【投稿者】
アキ さん

【プロフィール】
機能不全家庭で育ち、生きづらい大人になりました。未診断ですが、少しでも生きやすいように色々試しています。

 


【編集部からのコメント】
アキさん、投稿ありがとうございます。

『人よりも傷付いた分、傷付いて損をしてきた分、この経験を活かせる仕事に就きたい』と考えたアキさんの強さ、やさしさ、それがたとえ「見返してやる」という気持ちであったとしても、すごく立派だと思いました。

そして現在、自分自身のゆがみに気づいてリハビリをされていること、その一環としてここに投稿してくださったこと。本当にうれしく思います。

アキさんが「私も自分のことを語ってもよい」ということを経験してくださったように、この経験が必要な方は多くいらっしゃると思っています。「他の人から見れば大したことない」「私なんて全然苦労してない」など、自分と他人を比べるあまり(または今まで比べられてきただけに)、自分の苦しみや痛みを適切に受け止められない方も多いと思うのです。

アキさんの「自分のケアの一歩」は、アキさん自身だけでなく、そんな方たちへのケアの一歩にもなったのではないかと思います。

ここは「自分語り」をしてもいい場所です。
あなたの「自分語り」によって、多くの人が慰められたり、励まされたり、気づかされたり、勇気づけられたり、たくさんの可能性があります。

「自分語り」が「自分語り」では終わらない場所、新たな価値が生まれる場所として、これからも読者投稿を運営していきたいと考えています。

 


【募集】
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4 件のコメント

  1. さら 返信

    読んでいて、身につまされました。
    私も似たような家庭育ちで、父がDV・母が私をカウンセラーに仕立てて愚痴の垂れ流し……家庭内に逃げ場がなく、成人後に自殺未遂するまで人生で親に自分の話を聞いてもらった記憶がありませんでした。

    話を聞いてもらった経験がないから「話せる人」がうらやましいんだと思います。
    話したとしても、私の人生では「甘えるな」「それは当たり前の苦労で誰でもしてる」「少しは社会の大変さが分かったか?」といわれるばかりで、共感されたり自分の感情を肯定された事がありませんでした。
    親が私に向けていた言葉やまなざしを内在化して、私はそれを私自身にも向けているし、他人にも向けている。
    何かあると心のどこかで親があら探しをしている。
    その自分自身の中にあるまなざしに今も怯えています。何かにつけ本当に怖い。
    人に弱みを見せて、分かってもらおうとするたびその目線が私をジャッジしている。「これじゃ人格否定される!」と防衛本能が刺激されビクビクする、その繰り返し。

    >「他の人から見ればお前は語るに値しない」とか、「働けてたなら苦労してないじゃないか」
    こういう気持ち、とても分かります。
    なんというか、もう誰も信じられないんだよなぁと。。
    自分が自分を否定するまなざしを持っているから、他の人も絶対にそこを攻撃してくる気がする。だから怖い。
    この思考をいつか捨てられたら、本当に楽になれるだろうなぁと読んでいて思いました。

  2. mck 返信

    似たような環境で育った者です。大変な思いをされてきたと思います。現在も物の見方のリハビリの途中とのことですが、アキさんの辛さや不幸が減ることを心より祈っております。

    「自分の感性を活かせるかもしれない、困っている人を助けたい。」私もそんな思いから福祉系の支援職を目指しました。相談、共感、助言…自分がしてもらえなかった、誰かにして欲しかったようなことを沢山やりました。しかし、私の力ではどうにもできない領域があること、自分を削りながら誰かを助けても私は幸せになれないことに気付いてからは、支援に対する情熱も失せ、現在は全く関係のない仕事をしています。

    自分を最優先してもいい。自分を大事にしてくれない人からは離れてもいい。誰かに献身するとしても、達成感や自分の満足のためでいい。自身に言い聞かせなくても自然にそう思える日が来たらいいなと思っています。

  3. あおき 返信

    こんにちわ。拝読していて胸が苦しくなりました。私も機能不全家庭育ちなのですが
    いまは下っ端の公務員をやっています。アキさんのお仕事とは違うと思いますが福祉関係の
    仕事に回されて、まさに!おなじような心の動きがあってダウン直前には、職場で安定剤大量に
    のんで昏睡するようになってました。1年休んで復帰して4ケ月です。いくら泣いて異動させ
    てほしいと訴えても、「辞令がでたらやらなきゃならない」としか言われず、今も異動には
    なっていません。「もう死ぬ」といったら「死んだらだめだがんばれ」とか言う人事を前に
    して、日本語が通じない別の国のひとのように見えてしかたありませんでした。本当は
    やめて別な仕事をやりたいけれど、覚醒したのが遅すぎて年齢がだいぶあがってしまいました。
    転職活動も昔したのですが、経歴が足を引っ張りうまくいきません。せめて配置の希望をきいて
    もらえるといいのですが、希望を出す制度もありません・・。

    誰かの福祉のために自分の心を犠牲にしてあたるというのは、本末転倒のような気がします。
    福祉は際限がありません。そして中にはどんどん欲深になっていく人もいます。心に傷を
    抱えた状態でその対応にあたっていくことは本当に苦しい。

    親の幸せ感、満足感をみたすために、私の心を犠牲にして応じるというのもおなじだなと今に
    なって思います。彼らの要求も際限なくて、しかも理不尽です。本当に苦しい。
    今はただ一分でもはやく彼らと現世で永遠に別れることができる瞬間を待っています。

  4. しそ 返信

    こんにちは、初めまして。文章拝読させていただきました。私も現在進行形で機能不全家族(のようなもの)の中で生活しています。
    わたしもアキさんと似たような「辛い思いをしたから支えていけるはずだ」思考に頻繁になり、困っている人に寄り添い、相手側からの過度な接触、それに嫌悪を覚えて自然に離れる、といった自分にとっても意味のない、相手にとっては中々酷いことを何度もしてきました。何度も人から離れる度、「何でこんなことしちゃったんだろう、傷つくだろうな」と後悔の連続でしたが、困っている人を見ると衝動的に動き、やめられずにまた見捨てて後悔する…の連続で自分自身にも負担がかかっていたのを覚えています。
    厳しい家庭環境で育って来られたこと、文面からでも心が痛むほど伝わってきます。死にたくなるのも当然だと思いました。
    私は医療・福祉職として働いていますが、頻繁に「何で私こんなことしてるんだろう、誰が私を見てくれて助けてくれるんだろう」と思うことがしばしばあります。
    だからこそ、アキさんのご投稿に自分が重なるように思い、コメントを書かせていただきました。
    自分の心が健康でなければ、他人の面倒は見れないということは働いてきたなか、今までの自分から痛いほど教えられました。まだまだ衝動的に動くこともありますが…。
    まずは、自分が救われること、これが大事なんだな、とご投稿を見て改めて感じました。
    長文失礼いたしました。素晴らしい投稿ありがとうございました。

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