「死にたい」まま「生きる」わたしたちへ




「死にたい」と思ったことがありますか。それはどんな時で、今までに何度あったでしょうか。きっとものすごく辛くて、苦しい時だったろうと思います。

「死にたい」を日常とする人々が世の中には存在しています。

わたしは物心ついてからずっと、「死にたい」という漠然とした思い、いわば希死念慮を持ちながら生きてきました。もっと説明すると、この「死にたい」には、消えたいだとか、眠ったまま目を覚ましたくないだとか、蒸発してしまいたいだとか、色々なものが含まれています。とにかく、全てを放棄して存在ごと消えてなくなってしまいたい。この世から退場したい。人生を破棄したい、辞めたい。そういったものをここでは「死にたい」とします。

長い年月の中で波はあれども、すでに10年以上、この思いは完全には消えたことがありません。抑うつなどの精神的な問題とはまた別に、心の中に横たわり続けているのです。

「『死にたい』を日常とする人々が世の中には存在しています」と書いた通り、同じような気持ちの人々は一定数存在しているようです。WEB上では「ゆるやかな希死念慮」「性格としての希死念慮」「慢性的な希死念慮」などのキーワードでいくつかの文献やブログがヒットします。

冒頭に述べたように、この死にたさは抑うつなどの精神的な問題とは独立して存在している部分があります。わたしにとって、「死にたい」は三大欲求の延長線上に存在していて、お腹が空いたから何か食べたいだとか、眠いから寝たいだとかと同じように、死にたいから死にたいのです。一番幸せなのは眠っていて夢も見ていない、完全に意識のない時だと感じます。

「死にたい」と、わたしたちのように当たり前に思うことのない大多数の人々の中で生きること、つまり死をタブーとする社会の中で生きるということは、精神的に監獄の中にいるようなものです。「眠い」と同じように「死にたい」などとは言うことのできない空気の中で息をし続けることは、呼吸をしているのに窒息しそうな矛盾感や閉塞感を生み出します。

「死にたい」まま「生きる」こと。これがどれほど苦しいか。生き地獄です。真綿で自分の首を絞め続けるような、たまたま引いた外れくじのひどい罰が無期限有効みたいな。だってそこに、そうなろうとしたわたしの意志はありません。

それでも「生きる」ことはできます。「死にたい」まま、「生きる」ことはできます。ならばこの苦しさは甘えなのか。

『生きてさえいれば』『生きているだけで』…それはよく知っています。幸せを感じることも、喜びを感じることもあります。

ただしそれらは、死にたい気持ちと同時に存在できるのです。わたしたちの持つ「死にたい」は、独立して存在しているがために、幸せな状況に置かれたとしても、その幸せをもたらしてくれる対象に申し訳なさや罪悪感を抱えたままです。これは甘えだと言い聞かせようとするわたしの中のわたしは、「死にたいなら死ね」「早く消えろ」「クズ」「ゴミ」と無意識に自分に投げかけてきます。今までいちばん多くの暴言をわたしに吐いてきたのは、間違いなくわたしです。

生きていてよかったと思うことはありません。「死んでいたら経験できなかった」という事実がただ存在しているだけです。大好きなものにすら、心からの純粋な感動を、何のためらいもなく捧げることができません。だってそれでも死にたいから。これはすごく悲しくて悔しくて虚しいことです。

死にたいと思わずに生きていけることはどれだけ幸せなことなのだろうか、どんな気持ちだろうか、いったいどれくらい、どれくらい、どれくらい、幸せだろうか。

心の基盤に重く横たわった不透明な死にたさがすべての幸せの足元を掬っていくような、すべての幸せが宙に浮いたまま、根を生やすことができないような。この絶対的な死にたさ、希死念慮がすべてのものをどこかで無に帰していて、それはもはや私の意志ではないような気持ちもします。

これらのことをカミングアウトするにはあまりにも大きな勇気が必要で、ほとんど人には言ったことがありません。理解されるものではないからです。ただ、わたしを含め、ほかの種類のマイノリティであっても、「否定しないでほしい」というのは同じではないかなと思います。大げさな心配やいかにも理解があるよと言わんばかりの態度、ましてや説教などきっと求めてはいません。そうなんだね、の一言で、そういう人もいるんだな、という認識で良いんです。

たくさんのことを書き連ねましたが、それでもわたしはもうしばらくはこのまま生きていくでしょう。いつまで生にしがみついていられるかは、分かりません。気が付いたら死にたさを抱えていた十数年前のように、気が付いたら死にたさが消えていたという日が、いつかやってくるのかもしれません。ただその可能性が限りなくゼロに近いということには、確かに気が付いています。

自分の抱える死にたさに気が付き始めた頃から、「環境が変われば」「何か成功を掴めば」、この死にたさは消えるのではないか、一過性のものだったと笑えるのではないかと、何度も期待してきました。そしてその期待は何度も失望へと変わりました。失望は積もり続け、期待もできなくなり、静かに確信しました。これは消えることはないのだと。

「いつまでもつのだろうか」と思います。いずれこの死にたさに負け、この希死念慮に殺されるのではないかと。もしいつかそうなっても、どうか責めないでほしい、お疲れ様よく頑張ったねと見送ってほしい。その時が来ないのが良いのだろうけれど。

「死にたい」まま「生きる」わたしたちへ。

幸せや喜びに、罪悪感を感じる必要はないのだと思います。死にたいままでも、死にたさと共存する幸せであっても。
疲弊しきった、『「死にたい」まま「生きる」わたしたち』の中のひとりとして、わたしは今日も生きています。どこにも行き場のない、「死にたい」という重荷を抱えながら。

 


【投稿者】
エヌ さん

【プロフィール】
20代女性


【募集】
メンヘラ.jpでは、体験談・エッセイなどの読者投稿を募集しています。
応募はこちらから


2 件のコメント

  1. はる 返信

    私もそこに横たわる希死欲求と共にもう35年以上生きてきました。私は身近な人には明かせないでやって来ました。社会的にそういう存在はいないと、生に一生懸命が常識な世界でしたから。大変ですよね良く分かります。多分、自分も、これからも虚しさと悔しさを抱えて生きて行くんだと思います。

  2. 砂糖 返信

    たとえ幸せでも、確かにそこに存在する「死にたい」。
    慢性的な希死念慮。
    すごく共感できました。

    最近、希死念慮って治療すればそのうち消えるんだろうか…なんて思うことがあります。
    というのも私も、はじめての希死念慮が覚えていないくらい子供の頃です。

    もしこれが先天性の希死念慮だったとしても、でもいつか、消えてくれたらなって思います。
    希死念慮って、つらくて、つらくて、しんどいです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)