恋愛って何なんだろう。 ロマンチックラブと折り合わずにパートナーシップを結ぶということ

コラム 恋愛 甘城青月

こんにちは。突然ですが、恋愛ってなんですかね。

明鏡国語辞典の定義によると、「異性同士(まれに同性同士)が互いに恋い慕うこと。また、その感情」とあります。ですが、これは明白な回答にはなっていません。「恋い慕う」ってなんなのでしょうか。「その感情」とあるということは、感情ではなくて行動を含むのだろうけれど。ちなみに「恋い慕う」は「ひたすら恋しく思う」だそうです。感情じゃないか。

わたしは生まれてからかなりの間、一般的に考えられている「恋愛」というものを理解せずにきました。おそらく今も理解はしていないと思います。しかし、今のところパートナーがいます。それは「一般的に想定される」パートナーシップではないかもしれません。一般的ではないかもしれないけれども、少なくとも私はその関係によって生活がよりよいものになっていると感じています。

これはひとりの人間の個別の体験でしかありませんが、恋愛というもの、もしくは「世間で言われているような」関係となかなか折り合えなかったり、違和感を感じているひとが考える助けとなれば幸いだと思います。

 

高校生まで―フィクションと社会構成物としての恋愛


まず、私がはじめて恋愛というものに触れたのは幼稚園の時でした。

幼稚園生であるにもかかわらず、バレンタインデーに異性にチョコレートをあげることを要求されたので、家が一番近い人にあげました。特段好意も悪意もない相手でしたが、親などが好意を持っているものと扱ってきたので面倒ではありました。今思うと、あれは子供を通した親同士のプレゼント交換であったと考えられます。

そして、概念としての恋愛を知ったのは、フィクションからです。

私は本を読むのが非常に好きで、特にファンタジーとSFを国内外問わず読んでいました。その中には当然、メインでも非メインでも恋愛要素を扱うものがあります。私はそれによって、物語を動かす要素としての恋愛を理解しました。要するに、他人を過剰に大切にすることによって行動が変化していったり、程度の差こそあれ性描写が存在する、などです。

対人モチベーションのひとつ。その要素は好きでも嫌いでもありませんでしたが、次第に他の人から「お前には好きな相手ができないのか」と言われるようになり、困惑し、苦手になるようになりました。

これは、私がASDであることも関係しているのかもしれませんが、本の中に存在する人間関係が実際の世界と同じなのではないかと長いこと考えていました。つまり、恋愛とはパワーゲームや階層の反映であり、皆自然にそうなるというもので、容姿や地位に恵まれた人間が実行し、周りに話題などを与える行為であるのだと。

高校生の時、一応恋愛というものをするべきなのではないかと、テレビドラマや友人たちの影響で思っていた際にそのように感じていました。実際、中高生の場合では、「カップル」はクラスやコミュニティ内で「上位階層」にみなされるひとたちの遊びというか、お似合いであると決めるのは周囲の人達であるし、少なくとも私の周囲では、クラスの周辺にいるひとたちがカップルを形成するとバカにされたりする傾向が見られていました。

恋愛感情は存在せず、カップルという現象が社会的要請によって出現する。観察の結果、私はそのように結論付けていました。

その考えが間違っているとわかったのは、高校生になり、友人から恋愛相談を受けたときでした。

友人はなんと、他人を好きだというのです。どのように好きなのか尋ねてみると、「付き合いたい」のだと、「一緒に遊んだり、手を繋いだりしたい」のだといいます。私は非常に驚きました。感情としてどうやら、彼女の中には実際にそのような行動を取りたいのだという欲求があるようなのです。特に周囲がどう、というわけではなくて。

アセクシャルという概念も知りましたが、そもそも「恋愛」がなんなのかわからないので、恋愛感情があるのかないのかもわからなかったのです。

 

パートナーを得るということ、あるいは対人交渉の連続


大学に入ってから、私を凄まじい勢いで好きになった人がいて、それが現在のパートナーになります。相手が自分のことを好きらしい、ということはわかったのですが、どうしていいのかわかりませんでした。別に自分と付き合うことによる社会的メリットなどがまったく感じられなかったからです。

また、私にはかなり強い性嫌悪と若干の感覚過敏があり、性行為は不可能と言っても過言ではありません。一般的に、恋人というのは性交渉を行うものであるというのは知っていました。

そしてサークルや学内の人間関係を見ていると、誰かと付き合うと高校と同じように話題にされるような環境ではありました。私はそれを望んでいませんでした。にも関わらず、その相手は私を好きだというのです。

そこで、私は自分が恋愛を何だと思っているのかと向き合うことになったのです。

その相手と趣味は合います。
話していても楽しい。
よく遊びに行くし、一緒にいてしんどいというわけではない。
他の友人と何が違うのか考えても、よくわからない。
「特別に仲がいい」のは確かである。
いわゆるロマンチックなシチュエーションに全く興味がない。
将来的に結婚などをすることを考えてもいいかもしれない。

では、なぜ?

私はとりあえず、そのことを伝えました。相手としても、私が大概変わっているのは理解されていたので、そんなに驚かれはしませんでした。ここで否定されていたら、結構傷ついただろうと思います。その時にお互いに、どんな関係がよいのかということを話し合い、一応の合意を得ました。

幸いなことに、相手は性交渉を好まない人間でした。それに、自分の嫌がることはしない、と約束してくれました。

そのおかげなのか、ほぼ他人に触れなかったのが、手を繋いだりする程度なら大丈夫になりました。自分の主張がすべて通るとはもちろん限らないのですが、「この相手ならここまでは大丈夫」「誰であっても許せない」の線引を考え、伝えるということの重要性を感じられました。

 

パートナーを得てよかったこととしては、継続して一定の人間関係を築く努力をすることがある程度強いられることです。

私は親密な人間関係から逃げてきたこともあり、最初は高頻度で(私にとってですが)連絡してくることに恐怖を感じたりもしました。そのようなことであっても、自分の考えを伝え、相手の考えを知り、落とし所を見つけていく、といったような交渉が可能になりました。最初は何もかも受け入れなくてはならないのだろうかと無理をしていましたが、そうしていると精神状態が飛躍的に悪化したし、どうやら相手は自分が傷つくと悲しむのだということを理解し、それならばちゃんと話をしようと思えるようになりました。

もちろん、対話をするには相手への安心感が必要です。安心感というのは、何か言っても怒鳴ったりしない、頭ごなしに否定してきたりしない、などです。私はそれまで、対話に対する恐怖感がありました。それまでの人生で自分の感性や論理を否定されることが非常に多かったからです。

現在のパートナーとの対話や交渉によって、否定されない場合もあるというのを学ぶことが出き、それはその他の人間との関係の向上にも寄与しました。確かに対話には体力がいります。自分の価値観と相手の価値観を理解する必要があります。それでも対話したいと願うのは、相手と一緒にいたいと思えるようになったからです。

また、お互いに対人関係や距離感に問題を抱えていたのですが、多少改善されてきたような気がします。恋愛に依存しきってしまうと大変なことになってしまうので、友人などとの関係をよくしておくのもまた重要だからです。(過去には友人とすごい共依存をやってしんどかったので)

ですが、これが永遠に続くとは思っていません。日々の生活でやっとなので結婚とかもまだまだです。でも、少なくとも、対話をすることはできるし、そうするためにちゃんと体力を残しておかなくてはならないとも思うのです。

 

まとめ:対人関係は対話の先にある


「一般的にこうなのに」と言って、眼の前にいる相手を無視しては、対話ができません。おそらく恋愛もそうです。

一般的な恋愛のイメージはありますが、それぞれが望む形の関係性とは異なっていることが多々あると思います。自分の恋愛を定義すること、望む関係とは何なのかを自分の頭で考えることが大切なのではないでしょうか。

 


【投稿者】
甘城青月 さん

【プロフィール】
大学生になってからASD+ADHDと診断されてどうにかこうにか生きている院生。


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