死にたいぼくと死んだぼくの友達

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死んだぼくの犬、死んだぼくのおじいちゃん、死んだぼくの友達。

 

当てはまる言葉は人によって様々だろうが、人間20年も生きていれば誰もが身近な死に触れたことがあるのではないだろうか。

死は忌み嫌うもの、あるいは恐れるものだと思っている人のほうが多いと思うが、なかには死を救済だと信じている人も決して少なくはない。実際、日本の自殺者総数は平成19年度が33,093人で、そこから年々減少しているとはいえ、平成27年度では24,025人が自殺している。

 

自分の死は人生で一度きりだが、他人の死はどうだろうか。

そして、私たちが死を知覚するには他人の死から死を体験するしかないのだが、自分にとって死とはどういうものなのだろうか。

 

 

現実世界での死

初めて私が死を体験したのは、大切に育てていた金魚が死んだ日だった。

呼吸が出来なくなるほど泣きながら、祖母と一緒に庭の隅に埋めたことを覚えている。昨日まで元気に泳いでいたのにどうして死んでしまったのだろうと、ただただ喪失感に包まれ悲しみに暮れていた。それからもクワガタや犬や猫を飼ったが、どの生き物が死んでも金魚の死より泣いた記憶はない。それは金魚の死によって、初めてぼんやりと死の輪郭に触れたからだと思う。

それから私は肉親の死を体験する。私の母親の後を追うように、母方の祖母、母方の祖父が他界した。当然ながら私はまた呼吸が出来なくなるほど泣いたが、金魚が死んだときの悲しみとは違う涙だった。その頃にはもう完全に死を理解していたが、肉親の死を受け入れることはできなかったし、それは今もできないだろう。

人間の死は形式的に進んでいく。いつまでも冷たくなった体に縋り付きながら泣いていることは許されず、私たちは沈黙し、思いを馳せ、毎日を生活していかなければならない。私は、人が死んでしまった事実が形式的に処理されていくことが恐ろしかった。

死後の世界を想像して怯えた夜もあった。しかし私は、死んだら母親に会えると信じていた。

皮肉なことに、肉親の死が、私の「人間はいつか死ぬ」という諦めにも似た感情を構成したのだ。

 

 

仮想世界での死

何の因果か、私がインターネットに出会ったのは母親の死がきっかけだった。母親が死んで解約するはずだった携帯電話が、当時小学4年生だった私の手に回ってきたのだ。

仮想世界でも、人間の死はたびたび目撃された。

私はインターネットではSNSばかり利用してきたが、特にTwitterではユーザーの年齢層のせいか性質のせいか、よく訃報を目にする。

Twitterでは似た性質のユーザーが繋がりやすく、いわゆる界隈というゆるいコミュニティも存在している。ユーザー同士がコミュニケーションを取るために、友達申請などの煩わしい機能を利用する必要はなく、ひとりごとのような気軽さで繋がりを作ることができる。

また発言の拡散力が高く、派手なユーザーはどんどんフォロワーが増えるという面白いSNSだ。

そして数年前、ある界隈の有名人として、一部の熱狂的なユーザーから崇められていた女子大生がマンションから飛び降りて自殺した。

そしてその数年後、派手な言動がネット上で話題を呼び、自身も精力的に活動していた若者が自殺した。女子大生と若者は知人だった。同じ界隈といっても間違いではないのかもしれない。一時期、彼らを真似るようにネット上から失踪するユーザーも存在した。本当に全員死んだのかどうかはわからないが、少なくとも二人は本当に死んでしまったのだ。

ふと、昔よく雑談をしていたユーザーのページにアクセスする。自己紹介文には「○○の妹です。兄はXX年XX月に永眠しました。生前、兄と仲良くしてくださった皆様、本当にありがとうございました」と書いてある。

今日もまた、名前を聞いたことがある程度のフォロワーのフォロワーが自殺をして訃報が回り、フォロワーは手首を切った写真を流し、別のフォロワーは精神薬をODしている。

結局、仮想世界での死も現実世界の人間の死なのだが、画面越しになるとコンテンツのフィルターがかかってしまい流れる涙も流れない。リアルな関係者でない限り形式的に処理されないという点においては、いつまでも思い出と名前が残るぶんだけ現実世界の死よりも美しい死のかたちなのだろうか。もっとも、私は絶対に死んでもネット上に自分の死を残したくはないが。

 

 

死を目の当たりにしてもなお死にたいと思うのか

私たちは生きながらにして死に向かって月日を重ね、時には他人の死を目の当たりにしてもなお死にたいと思うのか。結論から言ってしまえば、私たちにとって他人の死は何の役にも立たない。

私が肉親の死から死に対してポジティブな、あるいは投げやりな影響を受けたとしても、少なくとも「肉親の分まで生きよう」と素直に思える人間にはなれなかった。

私にとっては「死んだぼくの○○の分まで生きよう」と思うより、「ぼくも死んで再会したい」と願うほうが自然だと思えてならないのだ。

それは死にたいと感じているとき、他人の生死を気にかけている余裕なんてないからだ。

もう一つは死にたいと感じているとき、全てを諦めているからだろう。それは本来回避すべき死という結果に関しても、もはや回避することを諦めている。

私たちは死を止められない。

例え他人の死に引き止められようとも、招かれたと思い込んでマンションから飛び降りる。

あなたが死を覗くとき、死もまたあなたを覗いているのだ。




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詐欺自撮りで成り上がってきた詐欺師。「限界になったら自殺しよう」という気持ちで毎日楽しく生きてます。やる気あります。何でもやらせてください。

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