SNS死にたいコミュニティ

photo5

主観的な意見だが、ネットが普及する前に比べて「死にたい」という言葉を使うハードルはだいぶ低くなったのではないかと思う。それはもはやSNSの一部における共通語になりつつあり、実際「死にたい」を共通語として繋がるコミュニティは確かに存在する。

今回は一部のSNSユーザーとして、ぼんやりと観察することができるSNS死にたいコミュニティについて書こう。

 

 

■「死にたい」から始まる人間関係

例えば、mixiやモバゲーにはグループチャットのような機能があって(私が記憶している限りコミュニティ機能と呼ばれていたと思うが)、これが一番わかりやすい。

具体的には一つのゲームに対してこのゲームが好きなユーザーが集まり、そのコミュニティのなかで攻略情報や裏技などを共有する。これはわりと実益的な使い方だが、なかには「ネガティブさん集まれ~!似た者同士語りましょう☆」のようにお前絶対ネガティブじゃないだろというコミュニティも存在する。そして面白いことに、この手のコミュニティには結構な人数のユーザーが参加している。

ネガティブさんたちが集まって、いったい何の情報を共有しているのかと思って覗いてみたことがあるが、その内容はほとんどが馴れ合いである。「生きるのがつらい、毎日が憂鬱……そんな人はぜひ参加してください」的なコミュニティも存在するが、確実な自殺方法や大量摂取で死ねる市販薬など、死にたい人にとって有益だと思われる情報はほぼ書かれていない。

これは一時期ブームになった自殺サイトの影響もあるのだろうが、それなりに大規模なSNSでは投稿にあたり禁止ワードが設定されているところもある。危険な情報を書き込むユーザーを取り締まるための対策が講じられているのだ。

 

Twitterでは界隈やクラスタという言葉を目にすることがある。

これはTwitterにおける住み分けのようなもので、簡単に言うと似た者同士の集まりだ。ここでもごく一部のユーザーの間でメンヘラ界隈という言葉が存在していて、果たしてそれが自称的なものなのか他称的なものなのか、その言葉が何を意味するのかは曖昧だが、得てして同じ性質を持った個は集まりやすい。そして、集まった個を簡単に形容しようとするとこのような言葉が生まれる。

Twitter全盛期には「メンヘラオフ会」といういかにもヤバそうなオフ会もたびたび開催されていて、タイトルだけ見れば参加資格が「メンヘラであること」のようにも見える。

それらを完全に定義するためには諸々の議論が必要かもしれないが、実際にこのような呼称があるのは事実だし、それを見てメンヘラや死にたいコミュ二ティに憧れる人がいることも事実だ。

 

 

■死にたいと言う人はどういう人なのか

そもそもそんなネガティブさんや死にたいと書き込む人はどういう人なのか。

いまやSNSネットユーザーならば誰もが知っているであろう「メンヘラ」という言葉がある。聡明な皆さんはよくよくご存知だと思うので詳しい説明は省くが、ひとくちにメンヘラといっても精神疾患は多種多様であり、鬱病や気分障害、パーソナリティ障害など様々である。枠は違うかもしれないが、最近ではADHDという単語を目にする機会も増えた。

一般的に精神病を患う人は感受性が豊かすぎるだとか繊細すぎるだとか、真面目すぎるなどと形容されることが多いが、私がネット上で見るメンヘラは前述した特徴に加えて自己愛と独特なこだわりが強く、対人関係が難しいように見える。あとやたらと容姿に恵まれたメンヘラも多い気がするが、そのあたりの関係性は研究中である。

 

 

■死にたいと言う人は何を求めているのか

SNSのコミュニティで死にたいと言う人が、確実な自殺方法も大量摂取で死ねる市販薬も求めていないとすれば、いったい彼らは何を求めてネット上に「死にたい」と書き込むのか。

それは「共感」と「承認」ではないだろうか。

大きく括ればどちらも馴れ合いだが、死にたい人は自分と同じように死にたい人たちのなかにいると安心するのだと思う。それはメンヘラだけでなく、人間だれしも集団に属すると安心感が生まれるものだ。

 

要するに死にたい人は孤独で、「死にたい」と言うことをコミュニティの形成や人間関係の構築に使っている人は、その孤独を埋めたいがために「私はあなたたちと同じ気持ちです。敵ではありません。仲間に入れてください」と言っている側面があると考えられる。所詮ネットということは誰もが理解しているし、自分の死にたさは誰かが解決してくれるものじゃないということも理解しているはずだ。

こうして根本的な解決を必要とせず、ぬるい共感によってゆるく繋がっていく。ネットで死にたいと言う人にとって、この温度感は気持ちが良いものなのかもしれない。
ネットにおける承認は、いわば現実で愛されることの代替行為だ。

死にたいと言いながらリストカットをした写真をTwitterにアップロードするメンヘラもいるが、大半は自分を見てほしい、心配してほしい、構ってほしい、認めてほしいという感情に基づいている。別問題として、死にたければ何をしても構わないわけではないが、たびたびネット上の「死にたい」は免罪符として用いられがちだ。

 

 

■「死にたい」の本質

ネット上の「死にたい」には様々なパターンがある。

例としてTwitterを想像してほしい。

写真投稿ツイートのネタとしての「死にたい(何かとんでもなく衝撃的な写真)」もあれば、「明日も仕事だ……死にたい」もあるし「返事来ない(泣)もう死にたい(泣)」もある。

ネット上に書き込まれた「死にたい」のうち、何割が本当に「死にたい」のか、わたしたちが知る術はない。このように「死にたい」が本来の意味を失ってしまうほど、この言葉はネット上に飽和している。それは、この言葉の利便性が原因だ。
どこから生まれた言葉か、「死にたいは、し(あわせ)に(なり)たいって意味なんだ」みたいな言葉がある。本当に死にたい人にとっては脳内お花畑みたいな言葉だろうと思うし、他の人がどう思うかも激しい個人差がある。

でも、もし本当に死にたい人が本人を取り巻くあらゆる苦痛から解放されて、今後一切死にたいと思うことなく、本人が望むような幸せに生きることができるとしたら?

それでもわたしたちは、いつものように「死にたい」と言ってしまうのだろうか。

 

もしあなたが少しでも死にたさを軽減させたいと考えているのなら、まずは「死にたい」に代わる言葉を使うことをお勧めする。

そしてこれはどのコミュニティにおいても言えることではあるが、自分がそのコミュニティから抜けるときに周囲が快く「卒業」させてくれるコミュニティに属すること。

いつまでも「死にたい」を共通言語にして、共感と承認のぬるま湯に使っていなければいけない義務はないからだ。




The following two tabs change content below.
詐欺自撮りで成り上がってきた詐欺師。「限界になったら自殺しよう」という気持ちで毎日楽しく生きてます。やる気あります。何でもやらせてください。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です