友人の死から考える自殺対策と、死にたい人に寄り添う人たちへ

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「あの子が死んだ」

6月のある日、自宅で朝食を済ませ一息ついていると、高校からの友人Nから連絡が来た。それは私とNの共通の友人である女性の突然の訃報だった。

私は「え?え?」と聞き返しながらも、心のどこかで「ついに」と思っていた。Nはぽつりと「これで何人目だろう」と呟き、私は「近々、どこかで会えないかな」と切り出していた。私はこの現実味のない喪失感と奇妙な納得が入り混じった感情を、誰かと共有して整理したかったのだ。

 

 

■友人の死

数日後、連絡をくれたNと待ち合わせをして都内にある喫茶店に入った。

 

Nは亡くなった彼女とは大学からの付き合いで「きっと誰よりも仲が良かった」と言っていた。

 

私のほうはというと、Nの紹介で3年ほど前に彼女と知り合い、その後何度か一緒に食事をして、たまにみんなで集まって遊んでいた仲である。連絡は時々取っていたが、最近はお互いの生活も変わり疎遠になっていたところだった。親しい間柄だったNも、実は彼女が亡くなる半年ほど前にちょっとしたトラブルがあり、疎遠になっていたという。そんな状況で今回の訃報である。正直、個人的には悔しさがあった。
「最近見かけなかったけど、やっぱり相当追いつめられていたのかな」と聞くと、Nはうーんと唸り「タイミングが悪かったんだと思う」と言った。

 

最近見かけなかったというのはSNSでの話で、私たちは直接個人間で連絡を取り合わなくても、ネット上でゆるく繋がっている。私は彼女と疎遠になる前に、新しい仕事を見つけて頑張っているという話を聞いていたため、SNSで見かけなくなっても「仕事が忙しいのだろう」と思い込んでいたのだ。そうNに話すと、どうやらその仕事も長くは続けられなかったようだった。

 

私が彼女と出会った頃から、彼女は向精神薬を持ち歩いていた。彼女も長い間、死にたさに苦しめられてきた一人なのだ。Nが「タイミングが悪かった」と言ったように、それは私にもなんとなく想像ができるものだった。

 

本当に自殺してしまうほどの急激な死にたさは、実は長くは続かないと多くの人が言う。確かに私も本当にふと死んでしまいそうになるのは一瞬だったり、長くても10分くらいのものだと思う。そこをやり過ごすことが出来れば、死にたさは何となく薄れていくのだ。

 

「死んでしまいそうな精神状態と死んでしまいそうな現状、死んでしまいそうな絶望や悲観の波が偶然重なって背中を押されてしまったんじゃないか」というようなことをNは言った。

 

やり過ごすことのできない大きな波。これはいつ自分にも押し寄せてくるのかわからない。この話を聞いて、私が今まで生きてこられたのは奇跡かもしれないなと思った。

 

 

■私たちにできること

Nは(もちろん彼女なりに思うことはたくさんあると思うのだが)、自殺について諦めているような雰囲気だった。

「もちろん喪失感はあるし、後悔もある。だけど死んでしまったら、私にはもうどうすることもできない」と言った。Nはこれまでに、自殺によって友人を3人失っているらしい。私たちも、自殺したNの友人たちも、全員まだ20代だ。

 

Nは私よりも長く彼女と付き合ってきたし、私よりも彼女のことを知っている。彼女を支えてきたことも、助けてきたこともたくさんあるだろう。

 

だからこそ「最後まで迷惑をかけられた」と苦笑いしたあとに「正直、簡単に仲直りできる状況じゃなかったけど、和解して昔みたいに何でも話せる仲に戻っていたら、彼女は死ななかったと思う」と静かに言った。
私たちにできることは、SOSを発信する人に寄り添うこと。むしろ、寄り添うことしかできない。

それでも人は、死んでしまうときは死んでしまう。人が死に追い込まれるとき、自分の繋がりだとか思い出だとか、そういったものはあまり意味をなさない。

 

寄り添いによって日々の死にたさは緩和されるとしても、前述した「死にたさの5分間」や「大きな波」に立ち向かうときはたったひとりぼっちの自分だけなのだ。

 

 

■寄り添う人たちへ

ではこの寄り添うことはどういうことなのか。

それは金銭的な支援かもしれないし、知識的なアドバイスかもしれないし、時間と空間の共有かもしれない。深夜の長電話に付き合うこと、突然の「会いたい」という誘いに応じて、たとえそれが当日にドタキャンされても責めずに許すこと、「死にたい」と言われても否定しないこと。

 

それは相手が友人や、自分にとって大切なひとであれば当たり前の行動なのかもしれない。
私の過去に付き合っていた男性の一人も死にたい人だった。私は彼に対して当たり前のように寄り添った。

 

しかし、寄り添う人もある一定のダメージを負うと当たり前に寄り添うことが出来なくなる。年齢的にも精神的にも未熟だった私は、彼が「死にたい」と訴えるたびに「あなたが死んだら悲しいから死んでほしくない。私にできることなら何でもするから生きていてほしい」と説得していた。未熟なりに口先だけだと思われたくなくて、彼が求めることはほとんど全てに応じていた。

 

それでも、ある日彼の口から「お前に死ぬなと言われたところで俺の人生は変わるわけじゃない。つらくて苦しいから死にたいという俺に、お前の感情で生きろと言われて生きなければならないのか」と泣かれ、私の心はぽっきりと折れてしまった。

 

それ以来、「死にたい」と言う人には「とりあえず、一緒にご飯でも食べに行かない?」とか「これ、君が好きそうな音楽、ちょっと流しておくから」とか、そういうアプローチをするようになった。良くも悪くも私自身が死にたい人たちの一人である。ダメージを負いすぎれば私も死にたくなってしまうし、私が死にたいと言った時にはまずこういう言葉がほしいと思っているからだ。

 
寄り添うことに疲れて「死にたい」と言う人に「じゃあ死ねば?」と返すことはあまりにも簡単で、ほとんどの人はそれで死なないということを、なんとなく私たちはわかっている。

だけどもし、本当に死んでしまったら。

 

明日は自分がSOSを発信する側になるかもしれない。

 

そして本当に対策しなければいけないのは自殺だけでなく、死にたい人に寄り添う人への「寄り添い方」の伝授でもあると思うのだ。




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詐欺自撮りで成り上がってきた詐欺師。「限界になったら自殺しよう」という気持ちで毎日楽しく生きてます。やる気あります。何でもやらせてください。

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