他人の承認なんて必要ない 私が歪んだ承認欲求から解放されるまで

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人は誰しも「欲」を持っている。
例えば、食欲、性欲、睡眠欲は人間の三大欲求とも言われる。私たちは欲求を活かして進化してきたけれど、欲求に振り回されて破滅してしまう人もたくさんいる。

承認欲求も、そんな「欲」の一つである。

ある時期、私は承認欲求に執着し、振り回されていた。

私のそれは「私の苦痛をみんなに認めさせたい」という、なんとも痛々しい欲求であった。
この欲求を満たすために過労死をしようとも考えたが、そもそも働くこと自体がうまくいかず、元々のメンヘラ気質も相まって、私は自殺未遂に至った。

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メンタルクリニックへの通院を始めて、休職に入ると、友人や親に事情の説明をすることになった。私のこの歪んだ承認欲求を自覚させた恋人にも事情を説明した。すると、様々なことを言われた。「辛かったんだね」「もう頑張らなくていいよ」そういった「私の苦痛を認めてほしい」という欲求を満たしてくれそうな言葉をたくさん浴びせられた。

それでも、私の承認欲求は満たされなかった。ただ「虚しい」という感情だけが頭の中をうろうろしていた。なぜだろう。

うつ状態が酷く、感情が鈍磨していたせいかもしれない。希死念慮で頭がいっぱいで、承認欲求どころではなかったからかもしれない。原因はいくらでも考えられる。

今になって思うのは「本当はそんなことを誰かに承認されたくはなかった」からなのでは?ということだ。私が本当に承認して欲しかったのは、当時の彼氏でもなく、友人でもなく、親でもなく、ましてや上司でもなく、私自身ではなかったか。

そう思えるようになったのは、最近ようやく自分で自分の苦痛をあっさりと承認し、「あの時の私、マジでめちゃくちゃ頑張ってたよな」と思った途端、頭の中がフッと軽くなったような心持ちになったからだ。

 

■誰に褒められても何にも嬉しくなかった

思えば、他人に褒められることも労われることも少ない人生だった。

親にも褒められない。褒められたとしても「良かったね」「すごいね」というような結果を肯定する感想のみであり、経過を褒めるための「頑張ったね」というような言葉を親から聞いた覚えが、本当にない。

小学生時代、テストは100点取っても「当たり前」なので、私も100点は当たり前だと思っていた。何かを人に褒められたかもしれないが、記憶にない。

中学生時代、人生が暗黒期に入る。唯一褒められたことは「090さんは、当たり前のことをやるのは当然って言うでしょう。私はそこがいいと思うの」というものであった。ちょっと嬉しかった。

高校生時代。国語の成績がやたらと良かったので、そこだけ褒められる。大学に受かっても、別に誰にも褒められなかった。父には「〇〇大学か……」とあからさまに落胆された。

大学に入って以降は、社交辞令的に他人から褒めてもらうことが増えた。すると、他人から褒められた時、私が常に「そんなことない。全っ然そんなことない。よく見て!ほらこういうところがダメだから!」と、謙遜と呼ぶにはあまりにも必死な否定を繰り返していることに気づいた。

 

「誰かに褒められた時に本気で否定する」というのは、私のような自尊心低い系メンヘラあるあるなのだろうが、なぜ褒められたことを否定してしまうのだろう。

考えられる理由は、単に「本当に褒められたことが少ない」というものだ。

他者から褒められないで育ったことにより、自分には価値がないと本気で思い込むようになることもままある。単なる自己嫌悪だけではない。「誰からも褒められない」という明確なエビデンス付きの自己否定ができてしまうのだ。

その結果、私自身が「この世で唯一、存在を承認できない生き物」となってしまった。

そんな状態で他人に褒められても、他者の承認言葉を私が承認できない、というアホみたいな状況が完成する。これをちょっとかっこよく言うと、かの有名な映画『アニー・ホール』の名言「私を会員にするようなクラブには入りたくない」になるのだろう。

 

■突然自分を承認できるようになった

さて、自己否定と自己嫌悪に塗れ、自殺未遂までした私が、冒頭で述べたように現在ではあっさりと自分を承認してしまっている。

一体何があったんだろう、と自分でも考えるのだが、思い当たることが一つか二つくらいしかない。

一つは、「自分の内面のことなんて他人にわかるはずがないから、他者の承認なんて必要ない。自分の気持ちは自分でわかっていればいい」と思えるようになったことだ。

散々「私の苦痛があったことを認めろ」と他者に求めてきたが、そもそも私の苦痛は、他者に承認を求めるまでもなく存在している。自分の感情に他者の許可は必要ない。「私が苦しいと思ったから、私は苦しい」。これで十分ではないか。

 

もう一つは、過去を振り返った時に「痛い目を見たから、もうあんなに頑張りたくない」と自然と思ったことだ。これは「(今の全然頑張っていない私に比べれば)あの時の私は頑張っていた」と自分で評価したことと同義だ。

また、今の「全然頑張っていない私」については、「別にいいんじゃない?」ぐらいに思っている。これも自己承認の一つの形だと思う。

思えば、承認欲求に急き立てられていたあの頃、私はずっと世の中の「普通」に合わせるために心身を削り続けていた。これは文字通り死ぬほど大変だった。どんなに辛い思いをしても、なかなか完璧な「普通」になれない。

それなのに、世の中は私に「普通」を要求し、普通になれなければ「努力が足りないからだ」と私を責める(これには私の思い込みも含まれる)。もうこれ以上は無理だ。それならばいっそ死んで、私が社会に適応するために使った心身のコストを明確に示し、「あなたは頑張った」「あなたには無理だった」「もう頑張らなくていいよ」とみんなに言わせて、精神的に合法な感じで社会から降りたい。……こういう気持ちが「私の苦痛を認めてくれ」の根底にあったのかもしれない。

そんな時、私はなし崩しに、何一つ無理をしない、頑張らない、世間に合わせていない状態を半強制的に保ち続けることになってしまった。結果、社会から降りて、頑張っていない状態を周囲の人にも自分にも見せ続けることになった。こんな自分は生きていてはいけないのでは?と最初は何度も思った。

しかし、なんと驚いたことに、頑張っていなくても苦痛を感じていなくても生存を許されるし、人間として扱われるし、尊重されるではないか。こんな当たり前のことを、今まで知らなかった。承認欲求とは真逆の方向へ進んでみて、初めて気づいたことだった。

こうして自分で自分を承認できたことによって、私の心はいくらか穏やかさを取り戻した。

私の中にあった「私の苦痛を認めてくれ」という承認欲求は満たされて、今は静かに眠っている。

 

■自己承認のススメ

他者に承認されたいという気持ちは誰もが持ちうる。

しかし、他者に承認される前に、自分で自分を承認することができていなければ、どんな賞賛の言葉も虚しく響くだけだ。自分でも認められないものを他人に認めてもらっても、結局は「嘘だ」「揶揄われている」などと思って突っぱねてしまう。

「誰かに褒められると否定してしまうけれど、どこかで誰かに承認されたい」というあなたには、ぜひ自分で自分を承認すること、つまり「自己承認」にチャレンジしてみてほしい。

自己承認には、相当な時間を要するかもしれない。例えば私は数年かかった。また、具体的にどうしたら自己承認ができるようになるかはわからない。参考になるかと思って上に体験談を書いたが、あなたには参考にならないかもしれない。

ただ経験則として言えることは、承認欲求への執着が限りなく薄れている時ほど自己承認もしやすいということだ。承認欲求への執着を薄くするには、承認させたいこととは真逆のことを敢えてやってみるのもいいかもしれない。

 

私がこうして自己承認を勧めることには、一つ大きな理由がある。

他者からの承認だけを頼りに生きていると、他者の評価に振り回され続けることになり、いつまでもいつまでも終わりが見えない地獄のような生き方になってしまうからだ。

他者の承認だけをアテにして生きることがどれほど恐ろしいか、想像がつくだろうか。

Aさんの期待に応えたらBさんに嫌われて、Bさんに認められたらCさんにそっぽを向かれて……というようなことはどこでも起こる。そしてたいていの場合、AさんもBさんもCさんもあなたの人生の責任は取ってくれない。

自分を承認するかぐらい、自分の人生をどうするかぐらい、自分で決めなければならないのだ。自分の人生を、自分の意思と足で立って歩いていくために、私は私を承認することにした。

これを読んでいるあなたへ。

もし今、承認欲求に苦しんでいたら、まず「自分で承認する」ことに挑戦してみませんか。

とても時間がかかります。最初はとても抵抗があります。でも、きっと楽になります。

誰もが自分を承認できますように。




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会社員時代の自殺が未遂に終わり、いろんな意味で「サービスで生きてる」無職。生きてる以上、楽にやっていきたい。少しでも死にたい人のお役に立てればと思います。

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