「祈っても救われない」 宗教三世が信仰を離れたきっかけ
こんにちは。はじめましてになります、砂糖と申します。とある病気でメンタルのお薬をたくさん飲んでいる、メンヘラです。
ですが、今日は病気とはあまり関係のない話をします。そう、宗教の話です。
「新興宗教の二世信徒として生きる苦しさ」
「宗教とメンヘラの関係性 信仰一世が見た伝統派キリスト教会について」
実は以前からこの2つの記事に触発されて書こう書こうと思っていたのですが、なぜかこんな時期になってしまいました。すみません。
さて、タイトルにもあるように私は某宗教の三世です。新興宗教かどうか、と言われると微妙です。Wikipedia先生を駆使したところ、「伝統宗教の新宗派」というのが一番分かりやすい説明だと思いました。
そんな宗教の家に生まれた私は、今現在、宗派の集まりにはまったく行っていません。祈ることもほぼなくなりました。つまり、辞めちゃったんです。
ここではなぜ私が宗教を離れようと思ったか、離れる際にどのような気持ちの変化があったのか、を書いていこうと思います。
気持ち悪い話も含まれていますので、宗教系の話にアレルギーが出ちゃう方は Back to the future してください。
※ここから先は自己責任で読んでください。
まず1つめに、私は二世・三世の人が嫌いでした。自分も三世やん!って話ですが、そんな自分も嫌いでした。
なぜかというと、二世以降の人は、宗教に染まりすぎていて、世の中の常識よりも宗教内の常識に従って行動している感じがあったからです。それで時々、ものすごく不快な思いをしたことがあります。
その点、一世の人はちゃんと世の中での常識があり、その上で信仰しているという印象がありました。宗教のことを話すときもスッキリしていて、とても分かりやすかったです。
あと、「宗教とメンヘラの関係性」の記事にあったハレルヤおばさん的な人。
二世・三世に、大量にいました。それもすごく嫌でした。
宗教から離れることになった理由の2つめは、親との確執です。ここでは詳細には触れませんが、メンヘラにはよくあるやつと思ってください。
それで、私は宗教三世で、ということはもちろん親が二世なのですが、当然親のほうがその宗教には長い間いるわけです。ですからもちろん、親のほうが周囲からの信頼は厚くなりますよね。すると親との確執ができた時、私に宗教内の味方はいなくなりました。
「この人も結局どこかで親と繋がっている」。そう思うと、誰も信じられなくなりました。
3つめの理由は、「ソウルメイトは宗教外にもいるのでは?」と思うようになったからです。
どういうことかと言いますと、私たち三世は「宗教内の友達は学校の友達とは違う」「(学校の友達も大切にしつつ)ここでちゃんと友人を作りなさい」と言われて育ってきました。
この「宗教内の友達」ですが、私は勝手に「そこまで仲良くなくてお互いのことを知らなくても、なぜか仲良くできる不思議な友達」と思っていました。
小さい頃はそれで納得していたのですが、成長するにつれてこの「不思議な友達」が、学校などの宗教外のコミュニティで出来るようになります。
皆さんも、初対面で意気投合してまだ親友といえるまではお互いを知らないけど何故かとても仲良くなってしまった、という経験がおありかもしれません。私は中高生になるまで、宗教外でそんな経験をしたことがありませんでした。(コミュ障だったこともあると思います。)
そして、「宗教内の友達は学校の友達とは違う」という教育に疑問を感じるようになりました。それが第3の理由です。
ここまで3つの理由を紹介してきましたが、実は最大の理由がまだ残っています。
それが、「祈っても救われなくなったから」です。
この最大の理由を、宗教を離れるまでの過程とともに次の章に書きたいと思います。
5年前までは、私は宗教内で普通に信仰していたんです。それが、異変を感じたのは4年前の夏の大会でした。大会というのは宗教でよくある、全国から同じ宗派の人が集まって祈るイベントのようなものです。
以前掲載された「新興宗教の二世信徒として生きる苦しさ」の記事で「多幸感」という言葉が出てきました。
私も、大会のときはいつもこの、"宗教やってる人独特の多幸感"に包まれていたんです。
しかし、この4年前の夏には全く多幸感を感じませんでした。いつもならしんどいことも楽になって幸せな気持ちになるのが、この時はそうではなかったのです。
そこで私は、勝手に「信仰が足りないからだ」と思い込みます。これは誰に言われたわけでもありません。教典や、その他の宗教本に書かれていたわけでもありません。本当に、ただの自分の思い込みです。むしろ、教義的には「自分を責めるな」という方が近いです。それでも私は自分を責めてしまいました。
「信仰が足りない、もっと祈らなきゃ」
自責はもう、メンヘラの宿命ですね(笑)
それからはもう、最悪でした。大会や合宿はじめ、普段の集会にも参加するのですが、どれだけ祈っても私が救われることは全くありませんでした。あの4年前の夏の大会を皮切りに、私は宗教で救われる側から救われない側に一気に転じてしまったのです。
極めつけは、その1年後、3年前の夏の大会でした。
私が行っていたところの宗派は時々、いわゆる修行を行うのですが、この時は火渡りでした。(イメージできない人は、白装束を着た神道のおっちゃんと燃える炭をイメージしてください。参考:http://shugyo.link/shugyo/hiwatari)
火渡りはこの時が初めてではなかったのですが、私はとてもとても不安でした。なぜなら、この1年間で私はまったく救われることがなかったからです。
それでも大丈夫、大丈夫、ここで逃げたら負けだ、この修行で変わるかもしれない、と自分に言い聞かせ、祈りながら、火の前までは来ることができました。
しかし、いざ渡ろうとすると、まったく足がすくんで動かないのです。祈りながら2度、3度と踏み出そうとするのですが、まったく動きませんでした。
最終的には半ば強制的に列から引っ張り出されて、とりあえず一旦諦めようということになりました。
ここでも私は自分を責めました。渡れないのは自分が悪いんだから、渡ってやる!と、もう1度列に並ぼうとしましたが、これまた全く足が動かず、歩くことさえできませんでした。
「なんで、なんでみんなは渡れているのに私だけ渡れないの?」
「私は1年間これだけがんばって祈ってきたのに、火の前まで来てもどうして救われないの?」
そんな思いでいっぱいになり、文字通り全身から力が抜けました。
その後は、大人の方におぶってもらったり、這って進んだり、みんなが歩いて移動するなか車で移動させてもらったり、大会の内容はあまり覚えていません。周りのみんなが多幸感に包まれている中、私だけ絶望していて、疎外感たっぷりでした。
そこから私は、ほとんど集会にも行かなくなりました。次の年の大会には一応参加しましたが、手応えはほとんどありませんでした。
ある日、知人から言われました。
「それ宗教してる意味あるの?」
確かに、言われてみればその時の私にはもう、祈る意味も集う意味もありませんでした。何も変わらないのだから。私はもう、救われることはないのだなという感覚は、とても悲しかったです。このひと言で私は、宗教を離れることにしました。
見出しを読んで、おい!なんでやねん!となりますよね(笑)しかし私はメンヘラ、自責は続きます。
今度は、「宗教から離れなければ」という強迫観念のもと、「神様」を意識することに罪悪感を覚えだしたのです。
普段から神様を意識することはなくなったものの、怖くて仕方ない時、体調が悪くて仕方ない時、もうどうしようもないと思った時、とにかく必死な時に「神様助けてください!」って思ってしまうんです。全然、大げさなことではありません。
具体的には、
・お化けが出そうで怖い雰囲気の場所に行った時
・腹痛と貧血が同時に来てお風呂からトイレまで這って行かなければならなくなった時
・パートナーと大喧嘩した時
などです。
ついつい、身のしんどさから、「神様助けてください!」って思ってしまうんです。
私は、今度はこれで自分を責め出しました。
「離れるって決めたのになに神様に頼ってるんだ」
「どっちつかずな中途半端」
「結局一度決めたのに離れられないクズ」
といったように、自分を自分で責めまくりました。
結局、自責を続ける中で、「これはよくない」と思い直します。
そこで、よく考えてみると普通の人でも、神様を意識することはあるのではないかと思うようになりました。
神社にお参りする時に、手を合わせるのは何故でしょう。絵馬を書くのは何故でしょう。お葬式や法事で、お経を唱えるのは何故でしょう。
それと同じように、極限の状況になった時に神様を意識すること、神頼みになること、これは普通のことなのではないかと、思い直しました。
話は変わりますが、私たち精神障害者は「完治」ではなく「寛解」を目指します。
(※寛解…病気と適当に付き合いながら過ごせるようになった状態のこと)
この理由はたくさんあると思いますが、そのうちのひとつに、「完治を目指すと完璧主義になってしまい、よくないから」というのがありますよね。
これと同じように、完璧主義になり、「宗教から離れなければ!」と思いすぎるのはよくないなと思いました。
ですから、私は、「都合のいい時だけ信者」になります。
お正月とクリスマスとお葬式の時だけ神様を信仰します。その他にも、極限状態で神頼みにするしかない時にだけ、神様を信仰します。
「都合のいい時だけ信者」、この考え方は、私をとても楽にしてくれました。
もちろん、入信した一世の方、信仰を続ける二世以降の方の選択を、否定することは私にはできません。
しかしもし、二世、三世の方で、思い切って宗教から離れよう!と決意した方がいらっしゃったら、この記事が参考になれば嬉しいです。
【執筆者】
砂糖 さん
【プロフィール】
水溶性の物質。なめると甘い。とかいう意味は別にありません。
20代メンヘラニート。通院とか服薬とかしてます。
ですが、今日は病気とはあまり関係のない話をします。そう、宗教の話です。
「新興宗教の二世信徒として生きる苦しさ」
「宗教とメンヘラの関係性 信仰一世が見た伝統派キリスト教会について」
実は以前からこの2つの記事に触発されて書こう書こうと思っていたのですが、なぜかこんな時期になってしまいました。すみません。
さて、タイトルにもあるように私は某宗教の三世です。新興宗教かどうか、と言われると微妙です。Wikipedia先生を駆使したところ、「伝統宗教の新宗派」というのが一番分かりやすい説明だと思いました。
そんな宗教の家に生まれた私は、今現在、宗派の集まりにはまったく行っていません。祈ることもほぼなくなりました。つまり、辞めちゃったんです。
ここではなぜ私が宗教を離れようと思ったか、離れる際にどのような気持ちの変化があったのか、を書いていこうと思います。
気持ち悪い話も含まれていますので、宗教系の話にアレルギーが出ちゃう方は Back to the future してください。
※ここから先は自己責任で読んでください。
宗教を離れる理由になった4つのこと
まず1つめに、私は二世・三世の人が嫌いでした。自分も三世やん!って話ですが、そんな自分も嫌いでした。
なぜかというと、二世以降の人は、宗教に染まりすぎていて、世の中の常識よりも宗教内の常識に従って行動している感じがあったからです。それで時々、ものすごく不快な思いをしたことがあります。
その点、一世の人はちゃんと世の中での常識があり、その上で信仰しているという印象がありました。宗教のことを話すときもスッキリしていて、とても分かりやすかったです。
あと、「宗教とメンヘラの関係性」の記事にあったハレルヤおばさん的な人。
キリスト教会には、場所によってはたまに「わたしは救われたのよハレルヤ!」という感じのおばちゃんがいることがあります(ハレルヤおばさんと呼んでいます。うちの教会にはいません)。正直そうなったらちょっと嫌だし、別に自分がそういうふうな態度になれるとも思いません。
二世・三世に、大量にいました。それもすごく嫌でした。
宗教から離れることになった理由の2つめは、親との確執です。ここでは詳細には触れませんが、メンヘラにはよくあるやつと思ってください。
それで、私は宗教三世で、ということはもちろん親が二世なのですが、当然親のほうがその宗教には長い間いるわけです。ですからもちろん、親のほうが周囲からの信頼は厚くなりますよね。すると親との確執ができた時、私に宗教内の味方はいなくなりました。
「この人も結局どこかで親と繋がっている」。そう思うと、誰も信じられなくなりました。
3つめの理由は、「ソウルメイトは宗教外にもいるのでは?」と思うようになったからです。
どういうことかと言いますと、私たち三世は「宗教内の友達は学校の友達とは違う」「(学校の友達も大切にしつつ)ここでちゃんと友人を作りなさい」と言われて育ってきました。
この「宗教内の友達」ですが、私は勝手に「そこまで仲良くなくてお互いのことを知らなくても、なぜか仲良くできる不思議な友達」と思っていました。
小さい頃はそれで納得していたのですが、成長するにつれてこの「不思議な友達」が、学校などの宗教外のコミュニティで出来るようになります。
皆さんも、初対面で意気投合してまだ親友といえるまではお互いを知らないけど何故かとても仲良くなってしまった、という経験がおありかもしれません。私は中高生になるまで、宗教外でそんな経験をしたことがありませんでした。(コミュ障だったこともあると思います。)
そして、「宗教内の友達は学校の友達とは違う」という教育に疑問を感じるようになりました。それが第3の理由です。
ここまで3つの理由を紹介してきましたが、実は最大の理由がまだ残っています。
それが、「祈っても救われなくなったから」です。
この最大の理由を、宗教を離れるまでの過程とともに次の章に書きたいと思います。
「祈っても救われない」と感じ始めた
5年前までは、私は宗教内で普通に信仰していたんです。それが、異変を感じたのは4年前の夏の大会でした。大会というのは宗教でよくある、全国から同じ宗派の人が集まって祈るイベントのようなものです。
以前掲載された「新興宗教の二世信徒として生きる苦しさ」の記事で「多幸感」という言葉が出てきました。
私も、大会のときはいつもこの、"宗教やってる人独特の多幸感"に包まれていたんです。
しかし、この4年前の夏には全く多幸感を感じませんでした。いつもならしんどいことも楽になって幸せな気持ちになるのが、この時はそうではなかったのです。
そこで私は、勝手に「信仰が足りないからだ」と思い込みます。これは誰に言われたわけでもありません。教典や、その他の宗教本に書かれていたわけでもありません。本当に、ただの自分の思い込みです。むしろ、教義的には「自分を責めるな」という方が近いです。それでも私は自分を責めてしまいました。
「信仰が足りない、もっと祈らなきゃ」
自責はもう、メンヘラの宿命ですね(笑)
それからはもう、最悪でした。大会や合宿はじめ、普段の集会にも参加するのですが、どれだけ祈っても私が救われることは全くありませんでした。あの4年前の夏の大会を皮切りに、私は宗教で救われる側から救われない側に一気に転じてしまったのです。
極めつけは、その1年後、3年前の夏の大会でした。
私が行っていたところの宗派は時々、いわゆる修行を行うのですが、この時は火渡りでした。(イメージできない人は、白装束を着た神道のおっちゃんと燃える炭をイメージしてください。参考:http://shugyo.link/shugyo/hiwatari)
火渡りはこの時が初めてではなかったのですが、私はとてもとても不安でした。なぜなら、この1年間で私はまったく救われることがなかったからです。
それでも大丈夫、大丈夫、ここで逃げたら負けだ、この修行で変わるかもしれない、と自分に言い聞かせ、祈りながら、火の前までは来ることができました。
しかし、いざ渡ろうとすると、まったく足がすくんで動かないのです。祈りながら2度、3度と踏み出そうとするのですが、まったく動きませんでした。
最終的には半ば強制的に列から引っ張り出されて、とりあえず一旦諦めようということになりました。
ここでも私は自分を責めました。渡れないのは自分が悪いんだから、渡ってやる!と、もう1度列に並ぼうとしましたが、これまた全く足が動かず、歩くことさえできませんでした。
「なんで、なんでみんなは渡れているのに私だけ渡れないの?」
「私は1年間これだけがんばって祈ってきたのに、火の前まで来てもどうして救われないの?」
そんな思いでいっぱいになり、文字通り全身から力が抜けました。
その後は、大人の方におぶってもらったり、這って進んだり、みんなが歩いて移動するなか車で移動させてもらったり、大会の内容はあまり覚えていません。周りのみんなが多幸感に包まれている中、私だけ絶望していて、疎外感たっぷりでした。
そこから私は、ほとんど集会にも行かなくなりました。次の年の大会には一応参加しましたが、手応えはほとんどありませんでした。
ある日、知人から言われました。
「それ宗教してる意味あるの?」
確かに、言われてみればその時の私にはもう、祈る意味も集う意味もありませんでした。何も変わらないのだから。私はもう、救われることはないのだなという感覚は、とても悲しかったです。このひと言で私は、宗教を離れることにしました。
宗教を離れても続く自責
見出しを読んで、おい!なんでやねん!となりますよね(笑)しかし私はメンヘラ、自責は続きます。
今度は、「宗教から離れなければ」という強迫観念のもと、「神様」を意識することに罪悪感を覚えだしたのです。
普段から神様を意識することはなくなったものの、怖くて仕方ない時、体調が悪くて仕方ない時、もうどうしようもないと思った時、とにかく必死な時に「神様助けてください!」って思ってしまうんです。全然、大げさなことではありません。
具体的には、
・お化けが出そうで怖い雰囲気の場所に行った時
・腹痛と貧血が同時に来てお風呂からトイレまで這って行かなければならなくなった時
・パートナーと大喧嘩した時
などです。
ついつい、身のしんどさから、「神様助けてください!」って思ってしまうんです。
私は、今度はこれで自分を責め出しました。
「離れるって決めたのになに神様に頼ってるんだ」
「どっちつかずな中途半端」
「結局一度決めたのに離れられないクズ」
といったように、自分を自分で責めまくりました。
辿り着いた結論は「都合のいい時だけ信者」
結局、自責を続ける中で、「これはよくない」と思い直します。
そこで、よく考えてみると普通の人でも、神様を意識することはあるのではないかと思うようになりました。
神社にお参りする時に、手を合わせるのは何故でしょう。絵馬を書くのは何故でしょう。お葬式や法事で、お経を唱えるのは何故でしょう。
それと同じように、極限の状況になった時に神様を意識すること、神頼みになること、これは普通のことなのではないかと、思い直しました。
話は変わりますが、私たち精神障害者は「完治」ではなく「寛解」を目指します。
(※寛解…病気と適当に付き合いながら過ごせるようになった状態のこと)
この理由はたくさんあると思いますが、そのうちのひとつに、「完治を目指すと完璧主義になってしまい、よくないから」というのがありますよね。
これと同じように、完璧主義になり、「宗教から離れなければ!」と思いすぎるのはよくないなと思いました。
ですから、私は、「都合のいい時だけ信者」になります。
お正月とクリスマスとお葬式の時だけ神様を信仰します。その他にも、極限状態で神頼みにするしかない時にだけ、神様を信仰します。
「都合のいい時だけ信者」、この考え方は、私をとても楽にしてくれました。
もちろん、入信した一世の方、信仰を続ける二世以降の方の選択を、否定することは私にはできません。
しかしもし、二世、三世の方で、思い切って宗教から離れよう!と決意した方がいらっしゃったら、この記事が参考になれば嬉しいです。
【執筆者】
砂糖 さん
【プロフィール】
水溶性の物質。なめると甘い。とかいう意味は別にありません。
20代メンヘラニート。通院とか服薬とかしてます。
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