自傷行為、OD、飛び降り自殺 車イス生活を経て気づいたこと
文章能力は皆無ですが、読んでいるうちに自分の過去についても書いてみたくなりました。お付き合い頂けたらなと思います。
自傷行為のはじまり
私は二卵性の双子で、一つ下に弟がも居るので三つ子のように育ってきました。赤ちゃんの頃から手のかからない子だったと親から聞いています。
そんな私が自傷行為を始めたのは6歳の時でした。当時、敷地内で横並びに親戚達と暮らしており、父は三兄弟の末っ子で、祖父の後を継ぎ小さな建設会社の社長で叔父二人と共に大工さんをしておりました
小学校一年の時に父の兄である長男の叔父が結婚をすることになりました。それまで叔父は祖母と同居していたのですが、その家を出ることになり、入れ替わるように私達家族が祖母と暮らすようになりました
祖母の事は大好きでした。しかし、環境が変わったこともあり、まず左耳が全く聞こえなくなりました。いくら検査しても異常はなく、ストレス性と診断され精神科を勧められたのですが、母は精神科に行くことを許してくれませんでした。
そしてある日の夜中、父と母の会話が聞こえてきました。母は「○○(私)の耳がダメになったのは環境が変わったからじゃないかな?」と父に問いかけていました。すると父は「だったら○○(私)だけ兄貴の家に預ければ良いだろ!!」と激怒していて、ああ自分はいらない子だったんだなって、消えたいなって思うようになり、その頃から死ねばいいのか!と思うようになりました
しかしまだ6歳だった私は死に方なんて分かんなくて、心がぎゅーって痛くなるときはカッターで指先を切ったり物で自分を殴ったりして、身体の痛みで心の痛みを忘れようとしていました。これが自傷行為のきっかけです
初めての精神科
6歳から抱え始めた「死にたい」という欲求はずっと消えず、でもそれなりに楽しく学校生活は送れていました。小学4年生からはバスケ部にも入り、一見活発な子に見えたと思います。
しかし小学4年生の時は、激しい動悸や不安感から食事がとれなくなり、10キロ代まで体重が落ちたりということありました。また当時から人付き合いもあまり上手くなく、6年生の頃はクラスのほとんどから無視されたりということもありました。
中学に上がってからはバスケ部に入部し、新しい友達としばらく楽しく過ごしていました。
しかし中学2年の冬、家でパニック発作を起こり、過呼吸と痙攣で救急車に運ばれて、それを機に児童精神科を紹介され精神科への通院が始まりました
パニックになった原因は、父です。
父は自分の気に入らないことがあると、私を何時間も立たせて説教をしてきたり、また叩いたり、蹴ったりしました。
その日は父の機嫌を双子の片割れと弟が損ねてしまって、二人が私の目の前で殴られていました。それを見ていた私はフラッシュバックを起こしてしまい、パニックになったのです。
そして精神科に通うようになり…。一度は父も診察に同席したのですが、その時の態度がとてもヘラヘラして見えて、これまで理不尽に怒られても我慢し父の事を大好きでいたのに、それが裏切られたような気持ちになり、父とはそれ以来5年間口をききませんでした。
抑鬱、そして初めての自殺未遂
精神科に定期的に通っては居たものの、あまり自分の話はできませんでした。
なんだかんだで高校生になり、高校ではテニス部に入りまたバイトも始めて忙しいながらも充実はしていました!
しかしバイト先でのいざこざがあったりで、当時流行っていた携帯サイトに悪口を書かれたりとかするようにもなり、また家の父とは顔を合わすのも声を聞くのも嫌でしたし、同居していた祖母は父の財布からお金を盗み叔父に渡していたり、それを見るのもたまらなく嫌で家にも居場所はありませんでした。
高校1年生の冬に食事がとれなくなり、2年生の途中からは学校にすら行けなくなりました。友達は居ましたが、集団生活が苦しくついていけなくなってしまいました。
また自傷行為も、今までは物で自分を殴ったりといったやり方でしたが、あるときカミソリを見つけて切ってみたのをきっかけでリストカットに変わりました
毎日毎日腕を切っていて、その頃は常に傷だらけでした。こうでもしないと生きるのが辛くて、たまに登校した学校のトイレでも切っていました。常にカミソリやカッターを持ち歩く日々でした
2年生の秋に診断書を提出し、1ヶ月間休学。
それでも鬱は酷くなっていき、朝起きあがるのも辛くなり、明るいときに外に出るのも嫌で、どんどん引きこもるようになっていきました。
そして17歳の3月、もう死んでしまおうと思いODによる自殺を試みました。しかし「本当に死ぬのかな?」って思ったら急に怖くなって、母に助けを求め119番。救急搬送された先の病院で待っていたのは辛い胃洗浄と身体拘束でした。もう本当に地獄で、薬のODでは死ねないこともわかり、死にたかったはずなのに助かったことにホッとした気持ちもありました
児童精神科卒業
そうこうしてるうちに高校3年生になっていました。
しかし学校へは相変わらずいけておらず、リストカットも辞めれては居ませんでした。
しかし居酒屋のバイトを始め、そのバイト先の人達が良い人ばかりで、腕に包帯を巻いてくれたり話を聞いてくれたりとやっと居場所ができた!って思いました
そして学校の方は親と担任と福祉の方をまじえて話し合いをし通信に編入することができ無事に卒業でしました!
リストカットも自然に辞めれました!
そして医師と相談しながら少しずつ減薬をして、気持ちも落着き一時的に精神科を卒業しました!
再び精神科へ
18歳になり、先輩の紹介でキャバクラで勤務するようになりました。居酒屋は辞めてしまいましたが辞めた後も皆仲良くしてくれてました。
そして元々は保育士になりたかった私ですが、とりあえず1年はたくさん遊ぼうと思いバンドを追っかけて色んな所に行ったりしました。
そして1年が経ち、福祉の道に進みたいと思うようになり、必死にお金を貯めてキャバクラを20歳で卒業し通信の大学に入り、同時に前働いてた所とは別の居酒屋で働くようになりました。そんなとき、電車でパニック発作が起きてしまい、再び精神科に通うことを決め近くのクリニックに通うようになりました。
心因性失声症と精神科入院
パニックに発作がたまに出るものの、元気に過ごしては居ました。そしてどうせなら福祉のバイトがしたいと思い、知り合いに紹介してもらった社長の事業所に入り障害者の方の訪問介護を始めました。
大変なこともあったけど、利用者さんやそのご家族がとても良くしてくださり。こんな私でも必要としてくれる人が居るんだ!って思い自分の存在価値がなんとなく見出だせてました。仕事は本当に楽しかったです!
しかし、詳しくは書けませんが信頼していた社長からセクハラをうけてしまい、仕事をやめざるをえなくなり、その後は毎日のようにODする日々。そして心因性失語症と診断され、一時的に声も失いました。3ヶ月間、まったく声が出ませんでした。
辛くて、死にたくて、でも死ぬのは怖くて、薬を飲んでは深い眠りにつき。また腕を切ることで自分を保とうとしていました。
しかしこのままではいけないと思い、入院施設のある病院へクリニックから紹介状を書いてもらい精神科に入院することになりました。
解放病棟だったので自由にある程度生活ができ、薬も効いて声はすぐに出るようになりました!また色んな患者さんとも仲良くなり、それなりに楽しく入院生活を送り2か月で退院することができました!
そこからしばらくは元気にやっていて。また少しだけヘルパーとしても仕事をしていました!
セクハラの件については裁判を現在もしている最中です。
再び精神科に入院
元気な日々もずっとは続かず、この2年の間入退院を何度も繰り返しました。
ODも辞めれず、親が薬を管理してたのですが、探し当てては飲みというサイクルで、見つけられないときは市販薬を買い漁りODする日々でした。
そして自傷行為はリストカットから根性焼きに変わり、手首には無数の痕だけが残りました。
崩壊への道、そして飛び降り
フラッシュバックが酷くなり、薬も増えて行き、パニックで暴れる事はしょっちゅう。
幼かった頃の辛かったことも含めて両親が憎くなり、手をあげたりもしてしまいました。
またその時だけでいいから自分を見て欲しいという気持ちから、色んな人と寝ました。
そして去年の9月頭、死を決心して陸橋から飛び降りました。
死ぬのなんて怖くもありませんでした。
しかし助かってしまって、その時は悔しくて情けなくて仕方なかったです。
怪我は右手首粉砕骨折と右足先複雑骨折。
背骨と右側の骨盤骨折をしました。
すぐに手足は緊急手術をし、二日後には背骨にボルトを入れる手術を、そして手首を再手術しました。
奇跡的に神経や脊椎に損傷はなく障害は残らないとのことでした。
とにかく術後が痛くて痛くて、死ねてればよかったのにとも思いました。
しかし看護師さん達がとても優しく、また両親も毎日病院に来てくれて、2週間寝たきりで尿カテーテルとオムツをして排便はオムツでしなければならないとかありましたが、気持ちは次第に前向きになっていきました。
やっと車イスに乗れるようになり外の空気を吸ったとき、すごく幸せを感じました。
たまに愛犬を連れてきてもらったりして、そんな時は早く元気になって退院したいと思えるようになりました。
退院、そして現在
無事に退院してから1ヶ月は車イス生活が続きましたが、その後は少しずつ穏やかに過ごせるようになりました。時々家族に当たってしまうことはありましたが、両親にはとても感謝しています。
そして友人たちも凄く心配してくれて、本当にありがたい限りです。
障害者のヘルパーをやっていた自分が介助される側になって、初めて五体満足で生まれてきたことは幸せなことなんだなって実感しました。
そしてセクハラがあって2年、自分は可哀相なんだから病気なんだから仕方ないじゃん!!!なんて思っていましたがそんなんじゃ良くなるものも良くならない!!!って前向きになりました!
薬も1/3まで減り、頓服もほとんど今は飲んでいません!
飛び降りて痛かったけど、辛かったけど、取り憑きものが取れた感じです。
最後に
私の大本の病気は気分変調障害です。そのほか摂食障害やパニック発作持ちです。手帳も持っていて障害者年金も受給しています
幼い頃、「人前で泣くな」と父から言われ、それから感情を出すことがあまり上手くできなくなりました。
父は今は穏やかで、怒鳴ったり殴ったりなんかはしません。
ですが、やはり怒鳴り声と大きな物音が未だに怖いです。
そして母も、最初うつ病だと私が診断されたときは「なんでそんなにわがままなの?」とか、学校行けなくなった頃は「いつになれば学校行くのよ!!」など言ってきましたが、母は母なりに私の病気を理解しようとしてくれて、ぶつかることはありますがやはり今は感謝しかないです。
そして姉弟二人も私の事をとても大切にしてくれています。
23年生きてきて、やっと自分はこの世に存在していいんだってここ最近思えました
今辛い毎日を過ごしてる方
心が壊れる前にSOSを出してみてください
辛いんだって言っていいのです!
それから頑張るのではなく踏ん張って!
そして精神疾患を患ってる子を持つ親御さん
家族の理解や支えがとても大事です
全てを理解することは難しいけれど
どうか寄り添ってあげてください
生きてく道は1つではなく選択肢はたくさんあります!
どうか私とゆっくり生きてみませんか??
長い上にまとまりのない文章ですいません
最後まで読んでいただきありがとうございました
【執筆者】
さきちゅ さん
【プロフィール】
現在障害者年金を貰いつつ 現在障害者年金を貰いつつ自宅にて静養中 自宅にて静養中
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