対人恐怖による高校中退。今までの人生で得た「敷かれたレール通りに進む必要はない」という結論

体験談 アスペルガー症候群 中退 ADHD(注意欠如多動性障害) 徘徊大好き

こんにちは。初投稿になります。

現在は、都内でなんとか大学生をしています。まだ自分の度合いとしては「軽め」の精神具合なのかも知れませんが、その辺りをご承知の上、お読みいただけると光栄です。

また、文中にあたかも精神薬を否定しているかのようなことが書かれていますが、決してそうではないことを先にお伝えしておきます。私はマイナス面も含めて「薬」であると考えているし、薬のおかげで出来るようになったこともいっぱいあります。だから、薬の原因とは限らないけど、それによって起こったんじゃないか?っていう勝手な推測も含んでいます。

そして、そうしたこともある程度は皆様の参考になるかと思い、敢えて強めに書きました。申し訳ございません。

また、思い出せる限り、「私の精神がおかしくなり、そして一度の高校中退に至って、それから、そして現在まで」を細かく書いているつもりです。長かったら飛ばし飛ばし読んでください。

 

1.明るいけど問題児な小学時代

私は小学生以来、どちらかといえば、明るい性格でした。親からも「あなたは友達が沢山いるね。」と言われていました。そんな小学校時代ですが、私はとても問題児として見られてました。今、自らを振り返ると、非常に落ち着きがありませんでした。どのくらい落ち着きがなかったのかと言うと、

・授業中は机に向かって集中できず、授業中に席を立って騒ぎ立てたり、掃除用具入れの上などに乗っていた
・授業を抜け出して、校庭にある木の上に登って暇を潰していた

など、酷い始末で、成績は「測定不能」。この時の私が、地域のPTAには問題視されていたのは明白なことでした。本当に親には迷惑をかけたと思います。というか、ときどき親と呑む時がありますが、親は「とにかく大変だった」と吐露しています。

また、私は一人っ子ではなく弟という立場でしたから、きっと同じ学校にいた兄は私の暴れぶりと、その兄であるという立場、そして当然それに関することについて、多くの人間から何か言われたはずです。私は小学生の頃、家族に大変な迷惑をかけていたなと感じています。

 

2.発達障害が明らかになる

そして、母は私が小学四年か五年のころ、私を精神病院に連れて行きました。

私は病院で、あるIQ検査を受けて、精神科の先生と多少の問答を交わした記憶があります。その結果、軽度の「アスペルガー症候群」と「ADHDの傾向がある」と言われました。当時はあまり発達障害というものを理解していませんでしたが、これにより、持病の喘息とアレルギーの薬の服用に、毎朝の「コンサータ」の服用が追加されました。これが私の人生を大きく変えた一因だと思ってます。

コンサータ服用後はかなり落ち着くようになりました。ただしそれでも、ある程度落ち着くようになった、という程度。それどころか、小学五年生のある時期は、なぜか一カ月くらい不登校になったそうなんですが、ほとんど覚えてません。私が「落ち着きを取り戻した」という表現をしたくないのは、当時の私にはあまりにもこれが不自然だったからです。

そして、コンサータに慣れ始めたころに、私は地域の公立中学に入学しました。当時、私立の特別支援学校に入学することも母は思案しましたが、私はそれを拒みました。別に何も困ってなかったからです。二つ離れた兄は別の地元の公立中学に入学して、バスケットボール部でエースになってました。ちなみに私も、小学時代はミニバスをやってました。いい思い出です。

 

3.中学校へ

さて、私は中学に入りました。中学一年から二年にかけては、まだ中学においても問題児として暴れてました。本当に懲りないやつです。でもとっても楽しんでいました。中学一年くらいのころは本当に楽しかったです。また、この入学前後に、アニメというコンテンツに触れて、いわゆる萌えアニメ好きになりました。

中学二年になってもまだ問題児ぶりは健在でした。バレー部に入りましたが、「声が小さい」と言われること、ランニングしながら「ファイト!ファイト!」と声を出さなければならないこと、いつまでたってもボールに触れないことに嫌気が差してやめました。バレーは不向きでした。

さて、中学に入ってから、実は私にとっての人生の悪い意味での変化が生じます。

 

4.一つの以前の「私」が壊れる

変化を帯びたのは中学二年の夏前。なんだか、映画を観ながらやたら泣く女の子がいて、それが面白くって見てたんです。本当に私は嫌な奴です。

で、見てるうちに逆にほかの取り巻きに自分が笑われてることに気づいたんです。この気づきは私にとって驚きでした。きっと、小学生時代も同じ笑われ方をされてたんでしょう。でも、それには全く気づいてませんでした。そして、その時私は、言われのない屈辱感というものを覚えたんですね。だから、私は問題児ぶり・変人ぶりを全く出さないよう、「落ち着いてクールに」なろうと思いました。いわゆる無反応こそ、私の新しい形、いや本来私はそういうキャラだろうと思いました。でも、本当はこの落ち着きは「コンサータ」から作用するものなんだと思います。

もしかしたら私はあの女の子が好きだったのかもしれません。だから、静かな彼女に合わせて静かになろうとしたのかもしれません。しかしこれにより私は「チキン野郎」へと変貌を遂げます。そして、コンサータに支えられた「精神力」を得てしまいました。コンサータを飲み忘れた日は、不安を覚えました。コンサータ コンサータ と、ある意味依存に近いものがあったのでしょう。でも、そんなこと親には言えませんね。

私が突然静かになったことへのギャップから、男子達から沢山いじられました。「おい、●●は変な事するんじゃないのか?」、「いつものアレやってよ」。でも当時の私は、完全にそれを拒否。いわゆる中学生特有の「ノリ」も嫌いになって、だんだん嫌われていきます。なんだか、自分のやりたいことを邪魔される感じ。いや、私が勝手に邪見していたんでしょう。

また、突然静かになったことにより、変な奴と認識されてそれなりの扱いをされました。一気にカーストの最下層まで真っ逆さま。そして、イジリ(なぜイジメと表記しないかについては後々説明)は中学三年生まで続き、その頃には、なぜか様々な「こそこそ話」が、自分に向けられているように感じるようになってました。今でも本当のところの理由はわかってませんが、少なくとも、一気に中学での肩身の狭さを覚えたのは確かです。

そして、私は塞ぎ込んでしまいました。休み時間は極力顔を伏せて寝ていました。寝ると、周りの目線を感じなくなるからです。見られてる気がする感覚もありました。休み時間のイジリに対してなんだか恐怖も感じるようになって、顔も目元のクマがひろがり、顔はひもじいみたいになりました。また、私はいわゆる「出っ歯」でした。これが本当に中学時代は気になってきて、クラスメイトからもあだ名をつけられてしまう始末。完全に出っ歯はコンプレックスとなり、いつしかマスクをつけるようにもなってました。そして、これについて、親に相談する気はなぜか起きませんでした。

 

5.一つ目の高校に入学するも、全く馴染めない

さて、私は結局、中学を好成績で卒業しましたが、中学時代のトラウマといいますか、対人恐怖という感覚は強く残りました。

そして一度目の高校を合格し、入学します。志望理由は公立高校で唯一しっかりと活動してる山岳部があったから。そしてここで一度目と言ったのは、一年経たないうちに退学して、少し空白ができるから。

様々な環境の変化に対する私の不安の増加と、対人恐怖の中で中学時代の同級生もいない、ただ一人の環境。高校のクラスにいる期間は、私にとって非常に苦痛な「監獄」へと変貌しました。それでも、友人がいないわけではなかったのです。そして、山岳部にも入っていました。ある意味、ここが私の一つ目の高校生活での「拠り所」でした。同時に友人も、ある意味の拠り所だったのです。

しかし、高校は中途半端な進学校。私たち生徒に彼らなりの勝手な「受験スキル」を多く押し付け、そして、大学の偏差値、いわゆる学力というものに対する異常とも言える固執。「ああ、この高校には、自校の評判の向上しか考えられないんだな。」と思っていました。

 

6.高校での拠り所を失ってゆく

そして、クラスの「首領(ドン)」、いわゆるスクールカースト最上位の中心人物が仕切りまくる忌々しい文化祭や体育祭が終わったある時、私はある出来事に遭遇します。

友人と話している最中、なぜか私の顔を見て友人が笑うのです。真面目な話をしているときに。流石にこれには怒りました。「俺の顔に何か付いてるならさっさと言え」と言うと、「なんかお前の顔見てると笑えてくる」と友人(と考えてたひと)は笑いました。その時、なんとも情けない感覚に襲われました。結局、私は彼がやたら笑い始めた理由がわかりませんでした。裏で何かあったのかも知れないし、よく分からないですが。

この時、私のクラスでの拠り所だった「友人」は、「顔を見て笑ってくる、なんだか嫌な知り合い、けど彼くらいしか話し相手はいない」という状況に変わってしまいました。

 

7.引きこもりになるまで

実は私の高校には、入学前に春のテストというものがあって70点の合格ラインが定められていました。そのテスト科目は数学。私は大の数学音痴で、全く70点が取れずにいて、それは秋まで続きました。

また、高校は「週末課題」と言って、毎週、通称「青チャート(受験経験、高校の経験がある方はご存知かと思います)」のある単元をやるよう指示されました。また、それを解いたノートにも書き方が事細かに規定されていました。夏季休業になると、この「青チャート」を大量にやることを義務付けられてました。そのページは細かくは覚えておりませんが、少なくとも50ページ以上に及ぶものでした。また、週末課題自体も10ページほどに及びました。

当然、この量を自力でこなせる生徒は少ないです。なので、友人同士でやりあったりするんです。でも、私には友人が少なく、限界がありました。当然、休日は休むことも許されず、ただ疲れのみが蓄積、ストレスもきっと中学時代の倍以上になっていたことと思います。そして、この課題、積もり積もって、山岳部の秋季合宿の終わった頃まで所々残りました。

また、私は一学期時点の数学の単位を落としています。数学は進学にかかわる、と説明会で脅されていました、そして「課題を終わらせない限り、部活の参加は認めない」と山岳部の活動も制限されました。つまり、私は高校での拠り所を全て失いました。もはや訳が分からなくなり、私はある日「体調が悪い」と親に仮病を訴え、布団に籠りました。それは一週間か二週間ほどに渡り、親は「あぁ、疲れたんだな」と思ったようです。

小学生時代の項にも書いた通り、私は一度不登校になっています。あのときは復帰したので、私は親に「また高校行ってみなよ、担任の先生が待ってるってさ」と言われ、少し勇気を振り絞って、人がたくさんいて嫌な電車に乗って、授業に遅れて登校しようとしました。正面玄関も無事通過、そして私の所属するクラス「1-E」の扉の前に立ちます。中ではたしか、英語の授業をやっていたと思います。先生が生徒に問題の回答させるため順番に差してくるので、苦手な授業でした。

私はその扉を開けようとしましたが、扉が開かないんです。開けられないんです。そして、五分も経たないうちに、こっそりと足音も立てないように帰りました。帰りの電車は、嫌な電車だとか気にしてる余裕もなかったんでしょう、ただ電車の揺れだけを感じていました。頭の中では「あぁ、情けないな」と不甲斐ない気持ちと、弱い自分への問答が続きました。そして、気付くと高校が大嫌いになっていたのです。

 

8.案外「インドア」じゃない引きこもり生活

不登校の日々は、ガラケー対応のMMORPG(オンラインRPGの一種)をやってました。しかし家にこもり続けるのも、慣れてきたら暇になってきます。ここで、「夜間定時制」に通ってるとある友人を思い出します。彼は、昼間は暇してたようで、そのあとは暇さえあれば遊んでました。ある意味、引きこもっている間は今思い返しても本当に楽しかったです。今思い出しても「罪悪感」はなかったです。また、不良の知り合いとも遊んでました。不思議なもんです。

さて、そんな不登校生活も色々ありましたが、ここでは端折ります。ひとつ挙げるとすれば、高校の部活のライングループから連絡が入ったことです。「●●、大丈夫か?」、これを私はずっと無視してました。でも、いよいよ気になって、既読だけつけました。そしたら、部活のうちの数名から山登りに誘われたんですね。登った山は、中学時代に好きだった山。とても嬉しかったです。

でも、高校はもう行かなすぎて、担任の先生からも「一年遅れる形になるが、もう一度来て見ないか?」と一報。そんなん行けるわけねーだろ、と自分。もう別の高校に行く。つまり、転校ではなく再入学「一年から新しいところでやり直す」、そのように心に決めたのでした。

 

9.二度目の高校選び、二度目の受験

そうと決まれば高校選び。私は決断した時期が良かったんでしょう。ちょうどいい具合に説明会シーズンになりました。でも以前と同じところに行ったところで、同じ状況になるのは目に見えていました。そして、私はこの空白期間中、夜間定時制高校で生活を送っていた友人の影響から、その比較的自由で、多彩な人々が集うそんな校風を想像し憧れていました。ここなら私も多少は居心地がいいだろう、そう思ったんですね。

そこで、母は私に話を切り出しました。「こんな高校があるんだけど、どう?」

母がそう話しかけ、手に持っていた高校一覧の冊子。母が開いたところにあったのは、少し珍しい、単位制の高校の情報でした。この高校は「学年」という概念がなく、文科省の提示した「卒業必要単位」を満たせれば良い、そんな高校でした。また、三年間で絶対卒業しなくてはならないわけではなく、卒業まで三年から六年と非常に広い幅があります。さらに、その幅だけあり、受ける授業も自分で選ぶことが出来ます。そして私は、これこそ私が求めているタイプの高校だな、と感じました。

私は都内に住んでいたので、これに近い高校は多数ありました。しかし、無学年制であることが非常に魅力に感じ、わざわざ都心部のその高校を選びました。あとは受験するだけ。そして12月末ごろよりボソボソと受験対策を始めました。

そしてこの高校、普通の全日制高校の受験と違い三教科入試となっており、あとは少しの面接。まあ簡単だったのも、きっと私が一度入試を経験したと言うのもあるでしょう。お陰でそこそこの高倍率にもかかわらず無事合格。

 

10.入学までの最後の休み

あとは入学までの期間を楽しみました。でも全て楽しんでいたわけではないです。楽しめなかった、そのうちのひとつがバイトです。

入学後はアルバイトも出来るとわかって、近所のコンビニバイトを志望しました。言ってしまえば、先を見据えた期待と、また高校へ、ある意味何もせずにいた時間から、一つ秒針が進んだような感覚に安心し、勢いづいてたのでしょう。面接も、かなりハキハキとしゃべりました。そして、採用はその日に決まりました。私は中学時代のコミュ症の解決も兼ねて、様々な期待を寄せて面接に望んだのです。

しかし、採用後帰ってから不安がよぎります。そう言えば私は中学時代以来の極度の対人恐怖持ち。いやそれを承知で面接に挑んだんでしょうけど。というか、今なら言えますが、あれは自分に対する自信に基づく、自分からの否定への恐怖。頑固頭もここまで来ると、逆に身体が押しつぶされます。

そしてその不安は見事的中。バイト一日目から思ってたほど声も出せないし、バイト先の店長は容赦ありません。「なぜ分からないのか」。そりゃ当たり前です。大した指導もせず、見て覚えろ方式。きっと店長なりに、精一杯尽くしたんでしょう。でも私はバイト後のプレッシャーからの解放感から、結局三日で辞めることを決断しました。もちろん辞めた時は店長の落胆とともに小一時間は叱られました。当然です。面接時の自信と、実際があまりにも違うどころか、三日勤務した程度で辞めてしまうヘタレだったんですから。

叱られている間、こんな事を言われました。あまりにも前の話なので、印象により潤色もありますが、だいたいこんな感じだった、と言うことだけ。

店長「●●君がバックレとかしないだけ良かったよ。バックレとかしようなら俺が入ってる消防団の消防車で轢いてやろうかと思った。」
私「あはは……(苦笑)」
店長「まぁとにかく辞めるんだね、わかった。とりあえず三日分の給料、これね。」
私「ありがとうございます。」
店長「ありがとうございます以前に言うことがあるだろ、なぁ。」
私「すみません。」
店長「すみませんじゃねぇよ、おい。」
私「(早く終わらないかな)どういうことでしょうか。」
店長「とにかく言うことがあるだろ、最後にはさ。」
私「三日間の短い間すみません。ありがとうございました、お世話になりました。」
店長「……」
私「……」
店長「ふざけたこと言ってんじゃねぇよ!三日間で何がお世話だ、そう言う時は、三日間ご迷惑をお掛けしました、だろ!」
私「すみません。」
店長「だからさー、どんな教育受けたらこうなるんだよ、お前の親もろくな奴じゃないな。顔が見てみたいわ、ほらさっき俺が言った通り言えばいいんだって。」
私「そっか……三日間ご迷惑をお掛けしました。」
店長「はい、終わり。さっさと帰ってくれ、こっちには感謝もなにもいらないから、とにかく二度と顔見せんな。」

しかし「こんな風にアンタを育てた親はどうなってるのか」、こう言われた時は流石に参りました。家帰ってから親に色々愚痴ってやりました。本当に今でもコンビニに勢いで志望したことを後悔してます。もちろん自分の親に対して侮辱を交えた叱りをした店長への批判や、自分は接客業は向いてないという主張、様々なことを主張しました。でも、本当に三日で辞めて良かったです。きっと親の反応も「三日程度で辞めてしまうとは」、こう落胆混じりの慰めだったでしょう。

そして、そんなことや、夜間定時制の友人や地元の不良達と遊んでるうちに、「入学式」がやってきました。そして私の人生での最低で最高だった長い休みは終わり、また高校に縛られる日々が始まったのでした。

 

11.新しい高校生活の始まり

新しい高校生活の始まり、私は定時制高校を四年間かけて卒業しようと考えていました。当時の私は、高校という場所が「一日の授業が終わるまで高校の敷地から抜け出すことは出来ない、逃げ場のない監獄のようなもの」と考えていたからです。そして、新しい高校のシステムを身体では理解していても、実際にそのようなことが許される環境だとは思ってなかったからです。

入学後、夏休みまでの五月頃に一ヶ月ほどこっそり不登校になりました。五月病みたいなもんでしょう。面白いのがこの高校にはほとんど大学同様のシステムが採用されていますから、何も言われないんですね。でも、意外にも家族から「お前どこいるんだ」と電話。その時私は図書館でダラけてました。なんだか、結局授業時の周りの生徒の声が自分に向けられてる感じが嫌だったんですね。だから、こっそりとサボり。でも、以前は許されていましたが、家族から「もうこれ以上はない」と言われていたので、結局そのあと長期に渡って休む事も無くなりました。私はそれを受け入れてました。

しばらくして、夏休みが明けます。実はこの高校、一年時の名物で、夏休みが明けると一気に生徒が減ります。私は夏休み以前に休暇を取っていたので良かったのかも知れません。そうした生徒はしばらくして戻ってくるか、通信制の方に行くか、あるいはいわゆる「ニート」になります。

なぜか夏休みが明けて気づくと友達ができていて、グループも出来てました。当然自分が人付き合い下手なのもあって、友人もみな人付き合いが下手なやつら。高校がほぼ大学みたいなものなので、時折授業もサボりました。お陰で数学は「また」単位を落としました。そしてその数学は実質の三年次までに引きずりました。なぜ平気で単位をおとせたのかというと、学年という単位がないこと。これが要因でしょう。この高校の素晴らしさは本当にここにあります。単位を落としても「同じ年次に入学したヤツ」で、手を繋ぎ続けられるんですね。まぁ、卒業年が少し違うと、若干違いが出るのかもしれませんが。こればかりは制度上の問題として残ります。

そして高校では、中学時代に触れたアニメを通して友人と話したり、互いの性癖を通して変態な友達と猥談しまくったり。とにかく高校の友人の集いは、素の自分が出せる環境にあったと私は感じてます。また、オフでは再び山登りに没頭しました。正直、入ってから二年と半年以降は、ほとんど夜間定時制の友人を巻き込んで山に登ってました。まぁ、彼はアルバイトに熱心していたので、私は単独行で登る機会もありました。登山ガイドに乗ってないような場所を沢山登って、時に本当に死にかけました。でもそれが本当に良かった。まだ短い人生ですが、この時は本当に生きていることが楽しかったです。生きているとはなにかを心身共に全部で感じ取れていたと思います。

ある意味、高校生活は私の空白期間の延長線上にありました。高校は本当にいつでも授業を抜け出すこともできたし、その気になれば授業を糞真面目に聞くこともできました。また友人と常々一緒にいる必要もない。一年目に一ヶ月ほど不登校した頃のように、一定の範囲内であればサボることを許されていたからです。

面白いことにアルバイトもまた始めて、清掃員のバイトをしていました。朝二時間の短い時間で、全く無理もない。しかも授業が自由に選べたお陰ですから、そのまま高校に行きました。しかも私服校でしたので、高校に作業着のまま行ったり。笑

喫煙所のある現場でしたから、きっと臭かったでしょうね。全日制だと常に「臭いヤツ、こっちくんな」とバッシング三昧だったでしょう。

あと面白かったのが、一度目の高校の山岳部に、その年のある登山に誘われたこと。本当に今思うと、一度抜けた環境の人らに誘われる経験が二度あった事もあり、その時はよく「本当に(前の高校を)辞めてよかったのかな?」とか一人後悔して、時折二度目の高校である、甘ったるくも「なんとなく楽しい」だけの環境に浸る自分の存在をか顧みて、自分がなんなのかわからないときもしばしば。でもそんな時を、実は自分は楽しんでいたのかもしれません。今思えばこれは高二病みたいなもので、自分の残念さに酔っていたんですね。

 

12.高校生活も終わり、また新たな選択。大学進学を選ぶ

さて、そんな夢のような二度目の高校生活ですが、それもまた終わりを告げます。

実は入学時は四年と考えていた高校ですが、結局三年での卒業を選びました。おかげで受験期にも関わらず、授業はフルに入ってましたし、朝にはバイトもあり、三年次卒業を決め込んで授業を二コマ目から入れていたこともあり、学校の授業が終わるのは、夕方五時ごろ。しかも都心の学校で通学に一時間以上かかるので、帰宅も七時近く。また受験期とあって、予備校にも通ってました。本当に疲れましたね。でもなんだかこの時は行けたんです。

夏が明けるとさすがに受験に専念しなければいけないので、バイトは辞めました。朝の時間は二コマ目までの間、高校の自習室にこもりました。そして、さすがにいわゆるMARCHレベルとは行かずとも、その一個下くらいの大学にはなんとか受かりました。でも学力は私には問題ではなく、私の中に宗教という思想体系への興味があり、文化として学んでみたかったんですね。まぁこれに至るまでには、高校での山の中にある神社に触れたり、倫理の授業で哲学や仏教思想に触れたことに由来し、「その時は」様々な思想に触れてみたくなったんですね。

高校の最後の頃以降は、人というものを個人単位ではなく集団単位では興味深いものとして見ていたんです。また、山での地名由来など、宗教にまつわるものにとにかく糸口があるのではないか、など考えてたわけです。そしてその思いから大学に入学します。

 

13.大学入学後、一年次

大学入学、だれもがその響きを聞くとなんとなく力みます。まぁ、大学に限らず新しい環境に入ると、少なからず何かに期待して、新しいことを始めようとするものです。そのため、入学後は今度こそ「積極的に」、いわゆる色んな人、とくに女性に話せるようになりたいと思っていました。実は二度目の高校三年間、事務的な会話を除いてまったく女性と話してません。対人(特に集団)というか、とくに女性に何か言われるのが嫌なのかも。下心丸出しですが、それでも話せない事に若干の不自由を感じてました。

入学時は、いろいろやります。まず二度目の高校では触れもしなかった、部活、いやサークル。サークルの新歓イベントのとき、ワンゲル部に行きました。やはり、趣味から。こういうのは趣味からとか、熟知してるのが切り出しやすいですからね。

しかし、結局ワンゲル部には入らずに帰宅部。理由は「なんだかワイワイしすぎててアレルギーを発症したから」。山では山なりの会話がしたかったんですが、それが出来ないという不満が一番大きかったです。多分、感覚共有を求めてたんですが、当時の私はそれも期待出来なかったので辞めておきました。その選択がプラスに働いたかマイナスに働いたかで言えば、世間一般に人間関係構築の手段を失ったという観点から言えば確実にマイナスの選択だったでしょう。でも、基本的に趣味を他の人と一緒にやって、(私感的に)他者の変な価値観とかに悩んで、それに縛られて趣味を嫌いにもなりたくなかったし、言ってしまえば個人的にはある種プラスでもあったと思います。でも、今では若干後悔してます。

で、一年次は非常に高成績でした。本当に順調です。宗教の新たな世界を見渡せたので本当に楽しかったし、身の回りに一つの組織としての宗教が本当に沢山あって、その世界を見たり、その中にある問題などを考えて、自分の生活に当てはめてみる、そんなことが本当に楽しい作業でした。宗教に信仰を持ってない私としては、宗教という世界は別の世界だったんですね。本当に宗教という世界は、映画よりもどんな世界よりも信じられないフィクションじみていて(宗教一般をフィクションと言っているわけではない)、しかしそれが現実。そしてそんな世界、教義に基づいた世界観を共有する、そんな人たちが素晴らしいと思いながら多くの講義を受けていました。日本語や地名が、様々な宗教から由来する単語を多く有していることも知りました。

しかし、一年次はそれで良かったんです。まぁ、内容は本当に薄いですから、取っ付きやすかったんでしょう。また、夏前には山伏の授業を体験したりと、本当に宗教に触れまくってました。

でも、やはり相手が全日制高校出身が多い大学では、私の話など理解されません。なのでずっと肩身の狭い思いをしていました。多分この肩身の狭さは在学中はずっと続くことでしょう。もどかしさと、苦しみを分かち合える友人に巡り会えなかったこともあり、高校時代ほどの解放感はまったくなく、辛いものです。

一年次は自転車を買って、地元から北の群馬に行って、一泊して帰りました。実は、これに行った日は誕生日でした。しかも、二十歳になる記念すべき日。ほんとに自分は一人で遊ぶのが好きみたいで、その中で自分の人生を振り返ったりして、それでも生きてることを再確認して楽しんでます。多分これは友人とたくさん遊んでいることに楽しみを見出してる人からしたら、誕生日を一人で迎えるあたり、本当に悲しい人間に見えることでしょう。まぁ、実の私は全く悲しいどころか、楽しんでましたが。案外、大学一年の頃は一人で散歩したりする方が多かったです。そして相変わらず女性に話す勇気もなく……気分がとっても良い日と、そうでない日が続きます。

また、あることに気づきます。自分は「コンサータ」を飲むと集中力は上がる一方、なんだか人の悪口が耳につくというか、いわゆる中学時代に経験した「全ての他人の声が私に向かった悪口、笑いになっている」、これが強調されることがわかりました。なぜ分かったのかというと、それは自分の生活リズムの中で気づいたことです。コンサータが切れる時間になると、一気にその幻聴みたいなのは減るんですね。そして一年次は、コンサータを自分で勝手に減らしてみました(※勝手に減薬するのはやめましょう)。しかし逆に、眠くなるんですね。当然ですが、コンサータが減ったことで授業に集中することもあまりできなくなり、一年前期と後期では成績に大幅な差か出ました。

 

14.二年次突入から今へ

二年次に突入します。授業を選ぶのは高校以来慣れっこです。でも不思議なことに、受講したい授業もないんですね。前期はお陰であまりモチベーションも保たずに、それどころか二年次は人間関係をインターネットに求めるあまり、スマートフォン対応のチャットサイトに入り浸りました。オフ会みたいなのもしました。でも、非常に虚しい、これこそ本当に虚しい関係性だなと感じます。でも一人だけ、関係を保ってる相手もいます。しかも女性、ある意味大躍進であります。

前よりは激減した女性への恐怖。それはいわゆる中学時代以来女性に触れなかった、内実を知らなかったから。結局女性というのは私の思っているほど怖い存在ではなかったんです。でも、それでもやっぱり怖い。電車内の女子高生とか大の苦手で、本当にうるさいと思ってます。笑い声恐怖症とでも言いましょうか、そんな私の恐れです。ある意味私はワガママなんです、いやワガママそのもの、仏教的に言えば執着だらけ、煩悩の塊です。

そんな二年前期ですが、ついに単位を一つ落としました。一年次はフル単(全部の単位を習得する)だったのにね。でも思い返すと高校までに何単位も落としたり、何をみっともないことをしてるんだか。でも、大学で人間関係が五人程度の知り合いしかいない私としては、フル単だったことは一つの拠り所でもあったかも。しかし、拠り所を失った程度でヘタレることはもうない。私は酒でこれを紛らわせることを知りました。あまり酒ばかりも良くないですが。

そして、二年次は後期に入り、現在になります。最近、再び「幻聴みたいなよくわからないやつ」が増えてきました。でも、同時に親父の肉体労働を手伝っています。そしてアルバイト先の忘年会(アルバイトは例によらずまた、清掃です)に行き、酒を飲んで、とあることに気づきました。「ああ、酒がうまい」。真の酒のうまさというのを感じました。そしてその中に、同業同士の苦しみの共有、分かち合いとはまさにこれだと感じることができました。おかげで、また生きるときの掴み所を見つけました。そして私は将来、比較的競争しない、そんなところで生きていきたいと感じたのです。そして、今も肩身の狭さに苦しんだり、「聞こえないはずの悪口」に悩まされつつも、今を生きています。

 

最後に

私はこの二十歳まで、とくに中学からの戦いを通して、ピックアップしたいことといえば、やはり一度高校をやめたときのことです。

私は、きっとまだ「自死」というところまで追い詰められてはいないので、悩んでいる人を理解するのには一つの限界があります。しかしながら、不登校をしている人の気持ちは多少はわかります。しかしそれでも「絶対に解決する」なんて、自分はそんなことはできないだろうなと思いますし、そんなこと恐れ多くて言えません。

でも、私は一つの提案くらいならできます。勿論、参考程度のものですし、これが絶対的とは言えませんし、なにを偉そうにと思うかもしれません。しかしそれを承知でこの提案を書きます。

高校に入学して馴染めない方や不登校のみなさんには、「逃げ」という選択肢が、そしてそれが実行できる力があります。学校というのは非常に狭い社会です。そしてそれは、別に通過する必要もない社会だと思っています。でも、私は「高校くらいは……」という固定概念から「意地でも高校だけは卒業したい」、その思いで高校に行き、無事挫折。でもやっぱり……ということで、今度は無理の無い範囲で新しい環境を探しました。

それで、ここで言いたいのは、陳腐な表現で申し訳ないですが、好きな表現なので使います。「敷かれたレール通りに進む必要はない」ということ。たぶん悩んでる方は、このレールの圧迫に押し潰されつつも、そこから抜け出したい、あるいはそのレールに心の形が合わない、そんな人がほとんどではないかと思われます。

しかし、実は敷かれたレールなんてなかったんです。なぜなら、別に私は高校をやめても社会的に潰されることもなかったからです。いや、電車になぞらえるならば、「電車の中で目的地に向かって乗り続ける必要はない」、こう言った方がいいでしょう。もし、この電車が全日制高校といったメジャーな方法だとして、それの中にはたくさんのひとが乗っています。一部のひとたちは暇つぶしまぎれに、人を傷つけたり、傷つけあったりしてます。そして私はそんな環境が嫌で嫌で仕方なかったのです。

そして電車は、実はいつでも降りることのできるものでした。実は途中下車も出来たんです。そして、私は次の電車には乗らずに、そこで別の電車(昼夜間定時制高校)に乗り換えるまで、しばらく駅への散歩をしたんです。駅の周りには不良とか、あるいはまた別の電車に乗っている友人もいました。電車から見える世界なんてのは限られた範囲。あんまりいい例えではないかもしれないです。

私が言いたいのは、車窓から見える景色だけで世界の形を見ないようにしてほしい、ただそれだけです。それほど学校なんてのは狭い社会です。しかも乗り換えることが許されてます。私は一方の車窓から山を見ることをやめて、反対から全く違う山の表情を見られる、そんな電車に乗りました。しかもその電車はとっても遅い速度です。あるいは、電車じゃなかったのかもしれません。一人一人が、クラスに拘束されることもない。自由に一人でバイクに乗ったり、少人数で車に乗ったりしました。だから、みんな一つの山に対して見る景色は多彩なものでした。

そして私は、そんな素敵な高校に巡り会えたことに感謝してます。学業に不安を感じる親の方には特に気にかけてほしい、定時制に通ってたって、全日制に通ってたって、受験では関係ない。なんたって、私の卒業した昼夜間定時制高校でだって、ほぼ毎年、東大現役合格者は確実に居ました。つまり、定時制だからだめだとか言うこともない。

勿論、学校に行かないという選択肢もあります。とにかく言いたいのは、高校ひとつとっても、たくさんの手段があったこと。そして、私はそれに救われたこと。高校=全日制、さっさとこんな時代、みんなで終わらせましょう。いつまであの環境だけの感覚を持ってるんですか。私はここに、いわゆる学校という教育機関の一般的なイメージをなすりつけてしまう、メディアやネット、教育者様々に大変なことをしてくれたな!と言ってやりたいところです。

学校は行かなきゃならない場所じゃない、そして、行かなくたって様々な生き方はある、それが世間一般でいう残念さでも構わない。勿論、私はこう熱を持って言いますが、これに自信が持てないことも、大学では一般的な意見に押し潰されかけることもあります。でも、私はやはり、高校というのは中学のような義務教育の延長線上にある存在ではないことを主張したい。そう思います。

今不登校だったり、高校そのものに嫌気がさしてる人々の、多少の参考になること、また、「個性を大切に」と言っておきながら、そうでない高校が存在し、それが高校というイメージを一つ作り上げてることに悲しみを感じます。しかし、そんな私の考えも、一つの考えにすぎませんし、これが絶対とは言い切れないことは言っておきます。

そして、ほんとにこれで最後になります。私はいつになれば人への恐怖が払拭されるのか、本当に謎です。大学でも結局ほとんど知り合いの輪は広げられずにいます。ある時、飲みながら親と話していると「人見知りなんて誰だってある。」といわれ、安心した反面で「じゃあなぜ私は高校を辞めるまでに至ったのか?」と言いたくなる時があります。

でも、この文章を書いてるうちになんとなく心に整理がつきました。振り返ると、自分が分かった気になれます。なぜ高校を辞めたのか。なんであそこで辞めて、逆に次の高校を辞めたりしなかったのか。もし整理がつかない方、一つ書いてみるのも、何か得るものがあるかも知れないですよ。私はなんとなく、今までの人生を受け入れたくなる、そんな一つのきっかけになりました。

私はたぶん他人の悩みを解決などできないと身を待って感じました。なので祈ることだけをしたいと思い、これを書いた次第です。

自分のたった少ない、本当に大したことのない経験が、一つのこのサイトでの記録として残り、誰かがもしかしたらそのことで、何かのきっかけになるなら。ならなくても、何か感じてもらえれば。とにかく読んでもらいたい、書きたい、その一身でこれを書きました。

大変長い内容でしたが、私の自己満足のこの文章を見てくれて本当にありがとう。

皆さんの人生の味が、何か変わるかも知れない、そんな気持ちになる、一つの小さな味付けになることを祈って。

 


【執筆者】
徘徊大好き さん

【プロフィール】
一度挫折して、今は中学以来の「幻聴みたいなもの」に戦い続ける、自立支援を受けてる軽度の発達障害持ち。趣味は山だけど、最近登らず。時折遅いかかる虚しさや他者への恐怖感と常に戦い続けてきました。吉田拓郎の「今日までそして明日から」の歌詞が好き。歌詞みたいなこと考えながら、散歩で自分に酔ったりするのも好きです。親にはもう頭が上がらない、そんな気持ちです。ほんと色んな人に迷惑かけまくってる、そんな人生です。現大学二年生。今年で21歳になります。そんな男。
Twitter:@onedanijonitori


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4件のコメント

ありがとう 返信

長男の状態と重ねながら、投稿を読ませていただきました。
長男も私たちが分からなかった苦しみに耐えながら生活しているのかと思うと、
たまらない気持ちになります。
今長男は一人暮らしをしています。少しでも気持ちが落ち着く環境であればと
思っています。
様々な生き方があると「徘徊大好き さん」の投稿で知り、これからも長男に
寄り添っていければと思います。
「徘徊大好き さん」ありがとうございます。

郊外蛭 返信

はじめまして。素敵な記事をありがとうございました。
中学3年で似たような変化があり、高校入学後1年経たずに辞めたというところだけ僕と共通していて、それだけで勝手に親近感を抱かせていただきました。僕の場合は高校中退後、大学入学まで引きこもり続けましたが。また僕は遥かにパッシブで破滅的で冷たいので、このような思いやりに満ちた言葉を紡いで記事にできる徘徊大好きさんを尊敬しています。

記事の趣旨とは違うと思うのですが、徘徊大好きさんがしてきたことを知って気づかされることもありました。ある対象を一途に愛すること、親しい人々との関係を大切にすること、アルバイトやクラブ活動などさまざまな機会に挑戦すること、そしてこのように誰かの助けとなるようなメッセージを発し、誰かのために祈ること。どれもとても大切なことだと感じました。そして、どれも僕が今までやってこなかったことばかりでした。
愛や祈りについては僕の場合、愛してもいないのに愛していると称したり、祈ってもいないのに祈っていると称したり、欺瞞だらけになってしまい、どうしたらいいやらわかりません。ただ、実践の選択に関しては嘘をつくことができない気がしていて、何か新しいことを始めてみるのが良いかもしれないと、そう考え始めています。このまま生きていては将来僕と僕に近しい人々に精神的な荒廃が訪れる気がするので、何がしかやっていってみようと思います。
自分なりに自分の過去に整理をつけるというのも、参考にさせていただきたいです。

要領を得ないコメントすみません。あまりにも違うことを言っていたらご指摘いただければ幸いです。またどこかで文章を拝見できるのを楽しみにしています。

ken 返信

高校生の息子がADHD+アスペルガーであなたと同じ、中途半端な進学校に行ってます。2年次終了後に学校を辞めて単位制に行きたいと言い出してます。
息子のためには全日制高校卒業の肩書が必要かと思っていたのですが、そうですね、途中下車できるんですよね。私の思い違いだったようです。
あなたのように自分の人生を振り返れる、息子にはそんな人生を歩んでほしい。
納得して歩んで行けたらそれが良いんじゃないか、そんな気持ちになりました。
これからも親として彼をサポートして行こうと思います。

徘徊大好き 返信

あとがき(みたいなもの)

こんにちは。投稿者です。
投稿したからどのくらいで掲載されるのだろう、と思ってましたが、どうやら結構かかるみたいですね。まーさか年をまたぐとは。


さて、それはそうと、自分の文章が自分のブログ以外に載るってのは感慨深いもの、正直一つの雑誌に投稿するかの勢いで、かなり意気込んで書きました。

しかも、三名の方、それもどれもなにか感じ取ってもらえたことがかかれていました。きっとコメント以外にもなにかを、「なんだよこれ」とでも、なんらかのことを感じ取ってもらえたこと、自分にとってこれほどの喜びはありません。本当に本当にありがとうございました。あまりにも嬉しくて、でも、これ以上書くこともないし、下手に一人一人に返事するようなほどの度胸もないので、全体への感謝という形でここに足跡のようらにかかせていただきます。ありがとうございました。


最後に一つお詫びがあります。私、ツイッターのアカウントを載せたのですが、このアカウント、自分のと間違えてました...本当にごめんなさい。

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