発達障害者がアニメーターになろうとしている話
こんにちは、初めまして。
理由は後述しますが会社にばれると困るので半匿名のナナシという名前で失礼します。
現在20代後半の女です。
私は春から子供の頃から憧れていたアニメーターになります。
しかし、私はアラサーで大学にも行っていません。
なのに漸く専門学校を卒業し、初就職です。
社会的に見ても随分遠回りですし、アニメーターを始めるにもギリギリセーフかどうかな年齢です。
何故私がこんな遠回りな人生をしたのか軽くお話させてください。
まず私は九州の某市で生まれ、思い出すのも辛いですが私は長らく母親から抑圧されて育ちました。
なんでも出来て当たり前、お手伝いして当たり前。
弟には何も求めないくせに私にはあれをやれこれをやれ。おまけに褒められた記憶がありません。
そんな母親はおかしいのではと中学2年の時に気付き、中3に上がる辺りで両親の離婚も重なり、思春期の痛いオタクで学校でも浮いていたためもう学校でも家でもしっちゃかめっちゃかな毎日でした。
この時期のことは封印したいです。
中学と半年で辞めた高校など学校の対応等も記したいですがそれは置いておいて。
なんとか中3の夏から父が元々仕事がそっちだったために移り住んでいた隣の市に移住しました。
しかし、母親とのことから鬱になっていたためそれをよく理解出来なかった父と衝突しました。
(夕方までぐったりしてたら帰ってきた父に怒られたり、継続的に通院しないとなのに風邪等のように1回行けばいいだろとかなり遠い市の方の精神科に連れて行かれたり)
引っ越した隣の市の中学からその隣にあった地元の県立高校に通うも、いわゆる"陰キャ"だったためにクラスで弄られ、半年で辞めました。
それから脳梗塞を起こして半身麻痺が残った父方の祖母の同居介護などをするために生まれた市に戻って暮らしていました。
祖母の介護や介護施設に入ってからは洗濯の為の見舞いなどをさせられつつ、父の仕事の手伝いはしておりましたが、ちゃんとしたバイトはなかなか決まらずにいました。
その時まではまだ発達障害なんて全く知りませんでした。
鬱のような無気力感や怠さが定期的に来て精神科や心療内科に行くも、対処療法だけなので意味が無いと、根本からどうにかしてくれる病院を転々と探していました。
祖母も亡くなり、Twitterで知り合った発達障害の方と話すうちに自分もそうなのではないかと思い、2014年くらいに発達障害を診てくれる病院に行き、無事に(?)診断が下りました。
半年程でしょうか、その病院のデイケアに通ってコミュニケーションの練習をしていましたが、それが無くなってしまったのでハローワークを通して就労支援施設で簿記やPCの勉強を始めました。
その時は一般の会社の障害者枠の採用を目標にしていました。
しかし元々と数字が死ぬほど苦手で、簿記は向いてないのと、原因は謎ですが行くのが辛くて毎朝一人で行きたくないと泣き叫んでから無理矢理行ってました。
wordやエクセルは一通り使えるようにはなりましたが、面接を数社受けて障害者枠の実態といいますか、精神障害者の採用率の低さ、一生給料は10万足らずで昇格も望めずに障害者だからと飼い潰されるのかという未来の見えなさに
<私はこのままでいいのだろうか>
という気持ちが湧いていました。
そんな、私は何をしてお金を稼いでいけばいいのか悩んでいた時に、某アニメに出会います。
それはマッドハウスさん制作のワンパンマンなのですが、それを見た時に強烈に私がやりたかったのはアニメーターじゃないか!と思い出しました。
本当は中学を卒業したら専門学校に行きたかったのですが、学費のことや学校まで片道1時間通うことなど、とても荒れていた当時に親とまともに話せるはずもなく、心の奥底に封印していた夢が甦りました。
その時20代半ば。
実はアニメ会社にはアニメーターの募集に年齢制限を設けている所があります。(歳が上がると頭が固くなるかららしいです)
募集は25歳以下とするところもあり、目指すなら今がラストチャンスだと思いました。
もちろん、中学当時からアニメーターの薄給問題は知っていて、それが10年経っても余り改善されていないのも知ってしました。
しかし、原画に上がって数をこなせば普通のサラリーマンより稼いでいる人もいるという情報を耳にし、私はこのまま障害者枠で細々と生きるより、大きな賭けですが、オタク活動をするためのお金を沢山自分で稼げる職に就ける方を選びました。
その決断をしてなんとか専門学校に入り、あっという間に来年4月に卒業です。
夏に就活した際は元請けのアニメ会社数社から内定を頂き、就職も決まりました。
クラスでのストレスから酷い呑気症に何度もかかっていますが、鬱にはなっていません。
本当はもっと早くに自信を持ってこの道に進むことを選べれば良かったのでしょうが、育てられた環境で自己肯定感というものが全く育っていなかった為に決断出来ず、こんなに遅くなってしまいました。
しかし、半ニートのようだった数年間に父に色んな所に旅行に連れていってもらったり、祖母の介護や障害者周りのことを経験出来たのは芸の肥やしになると思っています。
学校の奨学金の返済や、東京でお金の不安は今もありますが、やりたくもない仕事に無理に就くより、同じ苦労やストレスなら好きなアニメーターという仕事で受けた方が後悔はしないのかなと思いました。
これは私が絵が描けるという技術があったから出来たことで、これからアニメーターとしてやっていけるかもまだ分かりませんが、メンヘラの方でやりたいことを抑圧して悶々としている方がいたら、一度きりの人生、いっそ飛び込んでみるのもいいのかもしれないと思いました。
【執筆者】
ナナシ さん
【プロフィール】
ADHD診断と障害者年金を貰っている現在九州住み、春から東京でアニメーター
理由は後述しますが会社にばれると困るので半匿名のナナシという名前で失礼します。
現在20代後半の女です。
私は春から子供の頃から憧れていたアニメーターになります。
しかし、私はアラサーで大学にも行っていません。
なのに漸く専門学校を卒業し、初就職です。
社会的に見ても随分遠回りですし、アニメーターを始めるにもギリギリセーフかどうかな年齢です。
何故私がこんな遠回りな人生をしたのか軽くお話させてください。
まず私は九州の某市で生まれ、思い出すのも辛いですが私は長らく母親から抑圧されて育ちました。
なんでも出来て当たり前、お手伝いして当たり前。
弟には何も求めないくせに私にはあれをやれこれをやれ。おまけに褒められた記憶がありません。
そんな母親はおかしいのではと中学2年の時に気付き、中3に上がる辺りで両親の離婚も重なり、思春期の痛いオタクで学校でも浮いていたためもう学校でも家でもしっちゃかめっちゃかな毎日でした。
この時期のことは封印したいです。
中学と半年で辞めた高校など学校の対応等も記したいですがそれは置いておいて。
なんとか中3の夏から父が元々仕事がそっちだったために移り住んでいた隣の市に移住しました。
しかし、母親とのことから鬱になっていたためそれをよく理解出来なかった父と衝突しました。
(夕方までぐったりしてたら帰ってきた父に怒られたり、継続的に通院しないとなのに風邪等のように1回行けばいいだろとかなり遠い市の方の精神科に連れて行かれたり)
引っ越した隣の市の中学からその隣にあった地元の県立高校に通うも、いわゆる"陰キャ"だったためにクラスで弄られ、半年で辞めました。
それから脳梗塞を起こして半身麻痺が残った父方の祖母の同居介護などをするために生まれた市に戻って暮らしていました。
祖母の介護や介護施設に入ってからは洗濯の為の見舞いなどをさせられつつ、父の仕事の手伝いはしておりましたが、ちゃんとしたバイトはなかなか決まらずにいました。
その時まではまだ発達障害なんて全く知りませんでした。
鬱のような無気力感や怠さが定期的に来て精神科や心療内科に行くも、対処療法だけなので意味が無いと、根本からどうにかしてくれる病院を転々と探していました。
祖母も亡くなり、Twitterで知り合った発達障害の方と話すうちに自分もそうなのではないかと思い、2014年くらいに発達障害を診てくれる病院に行き、無事に(?)診断が下りました。
半年程でしょうか、その病院のデイケアに通ってコミュニケーションの練習をしていましたが、それが無くなってしまったのでハローワークを通して就労支援施設で簿記やPCの勉強を始めました。
その時は一般の会社の障害者枠の採用を目標にしていました。
しかし元々と数字が死ぬほど苦手で、簿記は向いてないのと、原因は謎ですが行くのが辛くて毎朝一人で行きたくないと泣き叫んでから無理矢理行ってました。
wordやエクセルは一通り使えるようにはなりましたが、面接を数社受けて障害者枠の実態といいますか、精神障害者の採用率の低さ、一生給料は10万足らずで昇格も望めずに障害者だからと飼い潰されるのかという未来の見えなさに
<私はこのままでいいのだろうか>
という気持ちが湧いていました。
そんな、私は何をしてお金を稼いでいけばいいのか悩んでいた時に、某アニメに出会います。
それはマッドハウスさん制作のワンパンマンなのですが、それを見た時に強烈に私がやりたかったのはアニメーターじゃないか!と思い出しました。
本当は中学を卒業したら専門学校に行きたかったのですが、学費のことや学校まで片道1時間通うことなど、とても荒れていた当時に親とまともに話せるはずもなく、心の奥底に封印していた夢が甦りました。
その時20代半ば。
実はアニメ会社にはアニメーターの募集に年齢制限を設けている所があります。(歳が上がると頭が固くなるかららしいです)
募集は25歳以下とするところもあり、目指すなら今がラストチャンスだと思いました。
もちろん、中学当時からアニメーターの薄給問題は知っていて、それが10年経っても余り改善されていないのも知ってしました。
しかし、原画に上がって数をこなせば普通のサラリーマンより稼いでいる人もいるという情報を耳にし、私はこのまま障害者枠で細々と生きるより、大きな賭けですが、オタク活動をするためのお金を沢山自分で稼げる職に就ける方を選びました。
その決断をしてなんとか専門学校に入り、あっという間に来年4月に卒業です。
夏に就活した際は元請けのアニメ会社数社から内定を頂き、就職も決まりました。
クラスでのストレスから酷い呑気症に何度もかかっていますが、鬱にはなっていません。
本当はもっと早くに自信を持ってこの道に進むことを選べれば良かったのでしょうが、育てられた環境で自己肯定感というものが全く育っていなかった為に決断出来ず、こんなに遅くなってしまいました。
しかし、半ニートのようだった数年間に父に色んな所に旅行に連れていってもらったり、祖母の介護や障害者周りのことを経験出来たのは芸の肥やしになると思っています。
学校の奨学金の返済や、東京でお金の不安は今もありますが、やりたくもない仕事に無理に就くより、同じ苦労やストレスなら好きなアニメーターという仕事で受けた方が後悔はしないのかなと思いました。
これは私が絵が描けるという技術があったから出来たことで、これからアニメーターとしてやっていけるかもまだ分かりませんが、メンヘラの方でやりたいことを抑圧して悶々としている方がいたら、一度きりの人生、いっそ飛び込んでみるのもいいのかもしれないと思いました。
【執筆者】
ナナシ さん
【プロフィール】
ADHD診断と障害者年金を貰っている現在九州住み、春から東京でアニメーター
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