統合失調症からの回復記 わたしを支える「傷ついた治療者」としての経験

コラム 統合失調症 ひさがた茉生

メンヘラ.jpをご覧のみなさんはじめまして。ひさがた茉生と申します。

統合失調症の寛解維持でほんの少しのお薬を飲みつつ暮らしています。平日は障害者雇用でとある外資系企業で働き、土日は占いの仕事をしたりしなかったりしています。

はじめに現在の病状ですが、いろんなことにチャレンジする中で具合が悪くなることもあるし、一日の終わりに、疲労が得体のしれないおばけのような不安になって襲ってくることもあるけれど、笑ったり泣いたり怒ったり呻吟したりしながら、いろんなひとに支えられてマイペースに生き延びています。病前できたことでできなくなってしまったことはたくさんありますが、それも仕方ないと思っています。

今は比較的恵まれていて比較的調子がいいけれど、長い人生、多分ずっとこのままではない。

これからも困難も悩みも尽きない人生だろうけれど、ベースの部分で重ねてきた回復の資産みたいなものが今はあって、今日はどうやってそれを作ってきたのか、「傷ついた治療者」ということを絡めつつ、回復へ向かう試みについてつづっていこうと思います。いつかまた転ぶとしても、希望の話がしたくて筆を執ります。

あまりメンヘラ.jpに見ないタイプの話題が多くなるかと思いますが、どうぞ暇つぶしに読んでいただければと思います。

 

傷ついた治療者とは

ギリシア時代から言われてきたことに、「傷ついた治療者」というものがあります。これはとりわけユングが取り上げたことで有名な言葉なんですが、古くはケイローンの神話に見ることができます。

医術を極めた半人半馬の不死身のケイローンが、膝に毒矢を受け、苦しみながらも死ぬことができず、最終的には不死身の能力をプロメテウスに譲り、空に引き上げられて射手座になった。

というお話。痛みに苦しむ治療者の元型です。

自分が傷ついた経験があるからこそ人を癒すことができるし、人を癒すことが自分を癒すことにつながるというパターンは、医療の世界にしろ、心を扱う世界にしろ、いろんなところに見ることができます。

このサイトそのものがそういう、傷ついた者同士のつながりづくりを志しているものであるし、ピアカウンセリングや自助グループにも似た効能があるのではないかと思っています。またわかり手さんはこの典型かと思います。

そして私がここまで築いてきた回復の資産というのは、この「傷ついた治療者」としての活動に依るところがとても大きい。運も多分に良かったのだけれど、運をつかむヒントがもしかしたら私のケースに隠れているかもしれません。

 

震災ボランティア

暴力のある家庭で育った私は、大学時代に家を出て、仕送りなしで奨学金とアルバイトで食いつなぐ生活をしていました。

通っていた大学は都内の有名私大だったのですが、公務員と専業主婦しか生き方のモデルを知らず、生活の忙しさにほとんど就職活動ができなかった私は、東京と埼玉に事業所のあるスパイスを扱う小さな会社に就職しました。

そこで激務とパワハラと悪質な性被害に3年間耐え続け(逃げることを知らなかった)、とうとう過呼吸を起こして倒れます。その4日後、これは人生の新ステージの幕開けだなと思い、景気づけに川越でうなぎを食べ、心療内科へ向かうバスに乗り込みました。

そのバスの中で震災が起こったのです。

タクシーを乗り合わせて心療内科に辿り着き、診断書を出され、休職を言い渡されます。私は震災と同時に、ぽーん、と、日常の枠組みの中から放り出されてしまったのでした。

その後、計画停電の予定を確認しながら、家でひとり震災関連の報道やSNSを見続け、私は自分の身に起きた非日常が、大きな非日常に飲み込まれていくのを感じていました。自分の現状など、大したことないではないか。時間だけがある私はなにかしなければならないのではないか。そう思ったのです。

5月のゴールデンウィーク、フリーランスの友人たちと連絡を取り合い、症状を薬で抑えながら、レンタカーで被災地に乗り込みました。活動できたのは2日間だけでしたが、異臭の中を防塵マスクをして黙々とガレキをひとつずつ片付けました。人々の生活の記憶が詰まったそれらの山の中に、自衛隊の手による弔いの造花が咲いていました。

そこで私はほとんど無力なようで、今生きていて、小さな力で手を動かすことと、祈ることくらいはできる、そして見て聞いて感じることならできるのだと、小さな自己効力感を持って帰途につきました。帰りのラジオでクイーンの特集が流れていて、おごそかな気持ちで出会った魂や失われた命に思いを馳せました。

メンタルの問題で倒れた2か月後に凄惨な被災地の現場に入っていくというのは、いくらなんでもやりすぎだったかもしれません。それでも、その手があればできる活動が世の中にはたくさんあって、ひとの役に立っているという自己効力感と、居場所が手に入ることがあるかもしれません。

もしぴんときたら、近くのボランティアセンターを訪ねてみてはいかがでしょうか。もちろん、無理せず、できる範囲で関われることが基本かと思いますが。

 

民間療法と傷害

不安でがくがく体が震えているような状態の私に、あなたは体を動かした方がいい、と言ってくれた友人がいました。その友人の紹介で、ある気功と身体表現の稽古場に行ったのですが、ここで私は大きな失敗をします。

これを読んでいる人たちには同じ失敗をしてほしくないので、絶対に関わってはいけない集団の事例だと思って読んでみてください。

そこにいたひとたちは、踊りの指導や気功のことを「治療」と言っていました(医師法違反)。そして私の服薬を忌むべきものとして折に触れてつるし上げました(傷害罪)。

薬を飲みながら被災地に乗り込むようなことをするくらいですから、私は自分の不調を甘く見ていました。この程度で病気を名乗ったり薬を飲んだりするのは悪いことなのではないかと罪悪感を持っていたため、やがて彼らに洗脳されて服薬をやめてしまい、そのことを主治医に隠すようになってしまったのです。

冒頭で少し触れましたが、3年間上司から性被害を受けていたことで、自分のことを汚くて価値のない存在だと思うようになっていました。被害の話をした際に、会社ではえげつない取り調べを受け、セカンドレイプを受け続け、身内からもそのようなことを言われ、孤立無援で戦い続けて負けました。仕事で重要なポジションにいた上司はお咎めなしで、私は会社に居場所がなくなりました。

所属を失った私にとって、その稽古場は唯一定期的に顔を出すコミュニティだったのですが、性被害の話はすることができませんでした。

そして彼らは私のセルフイメージ通りの言葉を私に投げつけてきました。

「気が濃くて、臭くて、汚くて、醜いから、浄化しないといけない。お前は異性から魅力的だと思われたことは人生で一度もない」

そのために白以外の服を着るなと命じられたり、5本指のソックスを履いていただけでつるし上げに遭ったりしたのですが、それに従えばきれいになれると言われて、私は必死で従っていました。そして、毎日スワイショウ(気功の一種)をしながら、どんどん精神状態が悪化していきました。

約1年、毎週通った末、最終的に耐えられなくなって、壁を蹴って逃げ出すのですが、彼らに植え付けられた自己否定の芽は日に日に育っていき、ついには関係妄想と幻聴を発症してしまったのです。病院へ行くことが悪いことだという幻聴もあり、治療からドロップアウトした状態で、約半年のあいだ誰にも気づかれず病が進行していきました。

残念なことに、彼らがそこそこ優秀な表現者であったことは事実で、そのことが私の貶められた価値に信憑性をもたらしていました。最近アートをやってる友人たちに話をしたところ、人格に問題のある優秀な表現者というパターンは、あるものらしいですね。

彼らもまた生きづらさを抱えた当事者であり、全能感を求めていた。それが誤った治療者としての振る舞いを招いてしまったことは想像に難くありません。気功や整体、アロマテラピーといった民間療法は、本来は心身にプラスの効果をもたらしてくれるものでありますが、公式な意味での治療ではありません。

医療者との関係に踏み込んでくる気配を感じたら、全力で逃げてほしいと思います。

こうして統合失調症の急性期に突入した私ですが、症状の詳細や医療なしで徘徊していた時期のことを語るときりがなくなってしまうので、他の方の記事を参考にしてみてください。ここでは死に瀕した経験と、回復のためになにがよかったのかについてお話ししたいと思います。

 

闘病生活

統合失調症という病気は、まず医療につながるかどうかがひとつの大きな分かれ道です。病気であるという認識を持つことが難しい病なので、そこにひとつ大きな壁があります。

私の場合は、世界中に責め立てられる(妄想の)苦しみから逃れるために「そうだ、心を病んでしまったことにすれば、見逃してもらえるかもしれない」と思ったことと、統合失調症とは気づかなかったけれど、脅えて震え続ける私に「病院に行きな、この病院なら絶対大丈夫だから」と促してくれた友達がいたのが、運が良かった。

そうして医療につながった私は、主治医との問診で自ら「まるで統合失調症みたいなんです」と言い出します。この病気がどういう病気かある程度知識があってもなお、病識を持つことが難しいことがこの発言に現れていると思います。

そして治療を開始するのですが、幻聴や妄想以外に認知機能にも障害が出ていて、何も覚えていられず、日常のあらゆることがままなりません。治すためには薬を忘れずに飲むことが大切だと聞かされた私は、同じ統合失調症の草間彌生さんの絵が描かれたお菓子の缶に薬を入れて、日付を書いたメモをそばに置き、薬を飲むたび丸を付けて祈るように暮らします。そのメモを、両親に忘れず見ていてほしいと申し付けて。

両親の運転する車の窓から見える、救急車やパトカーにおびえながら、病院へ通っていましたが、3ヶ月ほどで、自分を脅かしていた監視者や何者かが消えていることに気づきます。幻聴や妄想といった陽性症状が抜けたのです。そこからは、空襲のあとの焼け野原のようになってしまった精神、つまり陰性症状、そして薬の副作用との戦いでした。

陽性症状は「ないものがある」と感じられるもので、陰性症状は「あるものがない」と感じられる、という表現があります。私には、陽性症状が出ていた時期に一生分以上の感情体験をし尽して、心が死んでしまったように感じられました。

何も考えられない。音楽を流しても、本を開いても、何も感じない。頭がさっぱり動かない。朝のことを、昼には忘れてしまう。食事を口に運ぶと、薬剤性パーキンソンの症状で、口の端からよだれや食べ物がぽろぽろこぼれてしまう。まっすぐ歩けなくて、転んで服が破ける。

人間関係も、仕事も失って、世界から切り離されて、ただ家の中で息をして、時々タバコを吸っている。ほとんど死んでいる。何もない世界の中で、私のそばには死だけが寄り添っている。

死のうか。それはとても甘やかなことに感じられました。

私に寄り添っている死をたぐりよせて、ひとつになろうか。それを思って、私はあることに雷に打たれたように気づきました。

死は、他者のものである。

こんなに近くに寄り添ってくれている死を、私の意識はその直前までしか経験することができず、ひとつになることができないのです。私の死を経験するのは他者で、私ではなかったのです。

あぁ、死にまで見放されてしまった。

私はそう思って、絶望にほんの少し笑いました。惨めな廃人のまま、世界にぶらさげられていることしかできない。それは途方もなく辛いことに感じましたし、病気の症状で自分の手元にまだいろいろ残っていることもわからなくなってしまって、なにもかもを失くしたように思われましたが、死ぬことの価値もわからなくなりました。それからそもそも命が「私」のものではないのではないかと思うようになりましたが、その話はまた別の機会にどこかで書きたいと思います。

それから主治医と二人三脚で徹底的に困りごとを話し続け、薬量をコントロールし続け、治療開始から半年で薬量を最小限まで落とし、リハビリが開始できるところまで回復しました。

どうしてこんなに早く回復できたのか、それは主治医との協力体制をしっかり作ったことと、問題のある家庭だったのが、私の治療のために団結したことが大きかったと思います。母親のおなかの中に戻ったような気持ちで、食事と眠る場所を与えられ、毎日お風呂に浸かり、ベランダで植物を育てたり、編み物をしたりして過ごしました。本当に運が良かったと思います。

 

リハビリ

それから、社会復帰に向けてリハビリをはじめました。

はじめ病院のデイケアや就労支援施設を紹介されたのですが、私にはあまり合わず、見学に行くたびに全力で場を盛り上げては帰宅して果てしなく落ち込んでしまうということがありました。仲良くなった他の通所者のひとからも、「あなたはこんなところに来てはいけない。もっと可能性がある」と諭され、私は施設に通うのをやめました。そこで考えた末、ハローワークで紹介が受けられる、無償の職業訓練を受けることにしました。

朝9時から夕方16時まで、タイピングの練習をしたり、ワードやエクセルの勉強をしたり、簿記を教わったり。私はそれらをこなしながら、能力が戻ってきていることを感じ始めます。この場を最大限生かしたいと思った私は、クラスメイトに次々声をかけ、お茶や昼食に誘います。アンケートを取り、飲み会の企画をし、ワードで作った招待状をみんなに配ります。せっせせっせと、みんなが楽しめる環境づくりをすすめます。

みんなそれぞれ仕事を失ったり、自分を変えたりしたくて集まっているひとたちです。全員が最大限の成果が得られるように、私は働きかけ、できないひとに勉強を教え、励まし合います。

そこで、みんなに聞かれるわけです。「ここを出たらどんな進路を目指すの?」

中にはキャリアコンサルタントの資格を持っている人もいて、外資系コンサルを勧められます。仕方なく私は病気のリハビリでここに来ていることを明かし、睡眠時間が確保できない仕事はできないことを伝えます(あるいは普通の仕事であってもできる自信はなかったのですが)。

そしてこう答えるのです。「私は占い師になりたい」と。

私には大きな後悔がありました。そうです、件の気功の稽古場での失敗です。私はどうしてあんな失敗をしてしまったのでしょうか。

人の存在が「傷つく」というのは、もしかしたらそういうことなのかもしれません。

常識や科学とは違う根拠で自分の姿を教えてほしくなったり、そうして得られた自分を否定する声が、真実に聞こえてしまったり…それは尊厳の傷とでも呼ぶべきものです。ネットスラングで蔑称の意味も持った(わかり手さんの定義は違いますが)「メンヘラ」の名を冠したこのサイトを訪れる人の多くも、きっとそれに近い傷を負っているかもしれません。「病」という烙印であったり、無力感であったり、他のいろんなことどもによって。

常識や科学や社会の外側に、手を伸ばすひとたちが、私以外にもきっとたくさんいる。そういうひとが手を伸ばした時に、適切な振る舞いができるプレーヤーになりたい。できることならその尊厳に触れるお手伝いがしたい。自分のような失敗をする人が、ひとりでも減るように。それは切実な願いでした。

半年間の職業訓練で、私はひとと関わることへの少しの自信と、定時にどこかへ出かける自信を取り戻し、新しい友達を得ました。そしてその後就職活動ではなく、占いの猛勉強を始めるのです。

 

鑑定活動

こうして私は鑑定活動を始めます。初めはモニター価格で、1500円以上の投げ銭制、時間無制限という破格の内容でした(現在は10分1000円の30分単位です)。大体ひと枠90分、ひととじっくり対話をする生活です。

ひとの悩みと向き合いながら、よく自分の傷がうずくのを感じましたが、真剣に勝負し続けました。

はじめは自信もなくおぼつかなかった対話も、回を重ねるごとに度胸がついてきて、何が来ても受け止めるという自負が生まれていきました。それからさらに勉強する資金が欲しくて、時短で派遣の仕事を始めます。この頃には面接への恐怖はなくなっていました。そして占いだけでなく、カウンセリングや心理療法の専門書を読むなど、気力が湧く範囲で勉強し続けました。

時短で楽な仕事をしているにもかかわらず、タバコを吸って耽ってしまって本が読めない日がほとんどでしたが、それでも少しずつ前進し続けました。お客さんがお客さんを呼び、また、大きな人脈ともつながりができてくる中で、応援してくれる友達がひとり、またひとりと増えていきました。

私は鑑定活動という窓を通じて、ひととのつながりを回復していったのです。

鑑定以外にも、働いている会社から業務委託で占いコンテンツの執筆を請け負うなど、少しずつできることを増やしていきました。

 

回復と今後

その後派遣の仕事がうまくいかなくなったり、問題のある職場に行ってしまってうつ状態になったこともありましたが、こうやって築いてきた人との関係が支えになって、私はそこから逃げ出し、自分に合った今の職場に辿り着くことができました。1日3時間吸っていたタバコも、やめて2年目です。

まだできないことはたくさんあります。体調不良で会社を休んでしまったり、部屋の片づけが苦手だったり。固定的な人間関係が苦手だったり、ネガティブな感情にすぐ動揺してしまったり、自分には価値がないという思い込みがあったり、他にも課題は山積みです。

それでも、ひとつひとつの課題について、気楽に話せる友達がいるだけで、生きていくのが楽になったような心地がします。

こうして棚卸しをしてみて思いますが、私は自他の境界が壊れているところがあって、自分の問題をほったらかしにしてひとの問題に関わろうとしてしまうところがあります。そういった傾向は薬物依存症の方にもよく見られるらしいですが、あまり健全なことではないのだと思います。

統合失調症の急性期には、戦争や凶悪犯罪や北朝鮮の核実験でさえ、私の責任だと世界中から責め立てられている妄想があって、「そんなの責任とれない!どうしろっていうのよ!」と、幻聴と喧嘩をしていた思い出があります。そんなことあるわけないのですが、なぜかそう感じられてしまう。

それでもここまでやってきて、仲間ができて、順番は普通じゃないかもしれないけれど、やっと自分を見つめたり、自分で自分をケアしたり、表現したり、楽しんだり、生きたいように生きていく準備ができてきたのかもしれません。

回復とは、回復し続けることという言葉があります。これからも大波や小波を経ながら、少しずつ成長していければと思います。

長い話にお付き合いいただきありがとうございました。鑑定依頼等いつでもお待ちしております。


【執筆者】
ひさがた茉生 さん

【プロフィール】
世界征服をたくらむ外資系OL兼、占い、当事者研究、その他いろいろ
twitter:@butnotail
blog:月の窓から


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