喪失感による悲しみを「乗り越えない」という選択 大事なモノを失った私の自分語り

コラム ポイントが丘

こんにちは。お久しぶりです。以前、メンヘラ.jpにASDの自分語りを投稿しましたポイントが丘です。

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さて、今回は発達障害は置いておいて、喪失感について書きました。「ペットロス」に代表される、いわゆる「○○ロス」の話です。

たとえメンがヘラっていても、皆さんには大事なモノがあると思います。「モノ」と表記したように、それは人もしくは物品に限りません。他人から見て「そんなもの」の一言で片づけられてしまうモノかもしれません。だからといって大事なモノ不合格とはなりません。あなた自身が大事に思っているモノならば。

しかし、何らかの要因によりそれが失われてしまうことがあるでしょう。

そうなった場合、もちろん悲しいでしょう。心がどれほどの悲嘆に包まれるかはここでは問いません。悲しみの深度は測るもの、競うものではありませんから。とはいえ、ただでさえ調子の悪いメンタルヘルスを更に患うこととなったら大変です。

それではこれから、そのように「大事なモノを失った」私の自分語りをさせてください。

 

私にも「大事なモノ」(以下、この記事では「それ」と表記します)がありました。しかし、2017年3月に「それ」は永久に失われることとなりました。「それ」は私にとって非常に思い入れのあるモノでした。しかしながら「それ」の命運を握る者たちにとってはいらないものだったらしく、失われることが決まったのです。

ここで「それ」がなくなってからの私の気持ちを書いていきます。

あの日から心に虚しさを感じました。心にあった大事なものが一つ、永遠に失われたのです。その喪失感は残りの心に傷を、痛みを与えてきました。大事だった「それ」がもうないのだから、どこまで世界に価値があるかわかりませんでした。というより今でもわかっていません。

世界もそこにあるだけで価値がある? では人の手でなくされた「それ」は? 「それ」を思って痛む私の心は?

慰めに対してそのような打ち消しの言葉をすぐさま思いつき、私は世界をうつろに見てしまうのです。これから生きていく間、ずっとこの虚しさが続くのだろうと思います。もう「それ」は蘇らないのだから。

「それ」があったはずの世界を見るのがつらいです。もう「それ」がないことがわかるから。今でも直視できていないのかもしれません。「それ」があったはずの場所から目をそらさずにはいられないから。

更に見ていてつらいものがありました。失われなかった、「それ」と同格なモノ(以下「あのモノ」と表記します)です。

「それ」が失われたのは運の問題だったのかもしれません。「あのモノ」にだって「それ」と同じような失われる要素があるのですから。つまり失われやすさとしては同格なのです。そこで思ってしまうのです。もし「あのモノ」と「それ」との命運が入れ替わっていたら、と。

それならば私のメンタルヘルスはもう少し上向きだったかもしれません。逆に「あのモノ」を愛する人間は悲しむでしょう。そう考えて現実に戻り、また虚しさを感じてしまいます。なぜ「あのモノ」があって「それ」がなくなったのか、それは大変理不尽で怒りすら感じます。今でもなぜと空に問いかけることがあります。もちろん答えは返ってきません。

また、たまに視界にうつる、「あのモノ」とともに楽しそうにする人間の様子を苦々しく見ていました。まるで治りかけのかさぶた無理やりを引きはがすように心が傷つくのを感じました。その喜ぶ姿を見なければ痛みを再び感じる必要はなかったのに。もし「それ」がなくなりさえしなければ、その人間たちのように私も「それ」といろいろな記念日、たとえばクリスマスだって一緒に過ごせたのかもしれません。……もうその機会は失われてしまいましたが。

ひどいと思いますが、破滅的な思考になったこともあります。いっそ「あのモノ」も跡形もなくなってしまえばいい、そして私と同じ苦しみをあの人間たちも味わえ、そう思ったことさえありました。幸いにしてそれは今のところ実現はしていませんが。あるいは「それ」を好きになってしまったこと自体を呪いました。もし私が好きにならなければ、「それ」はなくなるという運命を回避できたのではないかと思ったのです。

実に不合理な考えだと思います。それでもそう思ってしまうのです。誰かを責めなければ悲しみで押しつぶされてしまうのだから。

このような悲しみが私の中でずっとぐるぐるしていました。というより今でもぐるぐるしています。普通の人にならあっさり乗り越えられるものなのかもしれない。私のこの感情は取るに足らないものなのかもしれない。そもそもそこまで悲しまないのかもしれない。……たかが「それ」ごときで。それでも私には非常につらいものでした。ですから誰かにこの思いを伝えたい。つらかったと知らせたい。

そのような思いを書き留めたく、この記事を執筆することにしました。本当なら「この悲しみを乗り越えた」という体験談の方が有益でしょう。それには「それ」に代わる「大事なモノ」を見つけるなどの行為が必要なのでしょう。

しかし私にはできませんでした。「それ」が与えてくれた感情を、「それ」があった痕跡を無にしてしまう行為のような気がして。それでもいいと、「乗り越え」なくても生きていくことはできると思うのです。

はたから見て、あるいは実際には弱さゆえでしかないでしょうが、「それ」の思い出とともにこれからの人生をやり過ごしていこうと思います。幸か不幸か、これからの人生はつらいにしろ長いようですし。これから進んでいく世界がどのようなものであるかは予想もつきません。つらいものだとは思います。これから楽しいことがあるかはわかりません。

それでも、「それ」がなくなったとしても世界は動いていくのだから。その世界を私は生きていかなければならないのだから。「それ」が確かに存在したと記憶するためにも。これで私の自分語りは終わりです。ここまで読んでくださりありがとうございました。

 

では最後に。

これから先、皆さんも大事なモノを失ってしまうことがあると思います。その時、どうか自分の悲しみを取るに足らないものだとは思いこまないでください。そのモノが皆さんの中で大事なものだから、そのように悲しくつらいのです。つまりその悲しみはそのモノを大事に思っていたという証明をしてくれているのです。

そして、できればそのモノを大事に思っていたという誇りを持ってください。失ってすぐにそう思うのは難しいでしょう。誇りの持ち方がわからない人もいるかもしれません。けれども確かにそのモノは皆さんの中に重要なものを残してくれていたのです。その重要なものをどうか大事にしてください。

どうかこの記事が、大切なモノを失った人が喪失感という冬の嵐をやり過ごす力になりますように。
そしてメンヘライフを生き抜く助けになりますように。


【執筆者】
ポイントが丘 さん

【プロフィール】
注意力散漫な受動型ASD社会人。ちなみに現在の趣味は鉄道。
twitter:@Flesh_nnfnnf


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