現実はふたつある。『物的現実』と『心的現実』について。

コラム うさく

はじめまして。うさくです。記事を書く事自体不慣れなもので、少し歪な部分もあると思いますが、何卒よろしくお願いします。

タイトルにある通り、人がもつ2つの現実。『物的現実』と『心的現実』についてお話させていただきます。

例えば、『年収1億円のお金持ち』と『イケメン東大生』を想像してみてください。

きっと我々の殆どの人が『いっぱいお金あって幸せなんだろうなぁ。』とか『地位も名誉もあって幸せなんだろうなぁ。羨ましいなぁ。』と思うのではないでしょうか。

それはお金持ちや高学歴、容姿端麗な人々は『幸せだ。』というロールモデルが私たちの頭の中に「世界共通の考え」として、存在しているからです。

これを『物的現実』といいます。

だから多くの現代人は『物的現実』を多く求めます。

巷でよく言われる「何やってんだよ!お前現実見ろよ!」の現実は、恐らくこっちになります。

しかし、物的現実が豊かな人々が不幸までとは行かなくとも我々が思っている以上に幸せでないというケースがかなりあります。皆が幸せだと思っている集団に属しているのに、なぜなのでしょう。

それは『物的現実』が豊かな人々にしか見えない「自分個人の考え」があるからなのです。

これを『心的現実』といいます。

『お金持ちになったが、時間も仕事に奪われるし、お金を失うことに恐怖を感じる。』
『モテてもしょうがないよ、告白を断るごとに心が痛むんだ。』

まぁなんとも贅沢な悩みだなぁとお思いになるでしょうが、彼らは真剣に悩んでいます。

しかしこれを一般ピーポーに話そうものなら『お金持ちが不幸だと?!貧乏人を馬鹿にしてんのか!!!』『モテモテで悩んでるなんてなんて贅沢な悩みだなぁ!』となるのは目に見えています。

ここでディスコミュニケーションが生じ、誰にも話せずに、互いに分かり合えなくなります。

これは、様々な場面で起こりうる現象です。

いじめにも該当します。

いじめた側が「軽くいじっただけだ。いじめてたつもりはない。」と言い、いじめられた側との現実の不一致がしばしば起きます。

いじめられた側が自分で感じた被害の大きさに寄り添わずに、どんなことをしたか、されたかという『物的現実』のみで正否を判断してしまうと、被害者側は「誰とも分かり合えない。」と、心を閉ざしてしまい、今後の人生にも大きな影響を与えかねません。

本当の問題は当の本人が『心的現実』としてどう痛みを感じたか。そしてこれに曇りなき目で寄り添える人がいるか。ここが重要だと思います。

確かに『物的現実』はいじめ等の問題の線引きとしては人それぞれで曖昧な『心的現実』よりも社会的に手っ取り早く、有用です。1つの指針にもなります。

でも、心的現実の方は、まだ何も終わっていないのです。

形はどうであれ、『つらいものはつらいもの』
です。

それには、証拠も理論も関係ないのです。

それを理解できていない人がこの世界には多数います。

大人になればなるほど目に見えるモノや成果に囚われます。いや、囚われざるを得なくなります。

そして、1円にもならない『心的現実』の重要性はどんどん淘汰されていきます。

だからいざと言う時、気づけないのです。目に見えるものがこの世の全てだと決めつけてしまう人がどんどん増えていくのです。

それが昨今の歪な社会問題の原因の1つだと、私は思います。

以上。2つの現実についてのお話でした。ここまで読んで下さった方々には本当に感謝します。

心的現実の重要性を感じる方法は、また別の機会に書かせていただきます。

では。


【執筆者】
うさく さん

【プロフィール】
20歳のADHD。ギタリスト。あらゆる疑問の解決を求めて心理学、精神学、哲学書等を読み漁り、気づけば200冊超。専門家ではないので確実性を保証することはできませんが、みなさんのお役に立てればいいなと思います。


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