「こころ百科」に関する記事につき、一部不確定な事実に基づく表現がありました、読者の皆様にお詫び申し上げます。

自分にも他人にも期待せず、諦めること。それが凪いだ心を手に入れるためにたどり着いた方法だった

コラム 燈子

皆さんのコラムを読みながら、少しだけ勇気を出して、今この文章を書いています。

「メンヘラ」の皆さんの中には、意外と周囲からは「病んでる子」と思われていない、という方も少なからずいらっしゃるのではないでしょうか。

私もそのひとりで、周囲からは「病んでる子」と思われていないことが苦痛な時と、バレてはいけないという気持ちの間で日々揺れています。

他者が思い描く私とは、「よく笑い、思いやりを持ち、両親との関係は良好で、友人があり、自分のやりたいことのために日々邁進し、フットワークが軽くアグレッシブ」。そう求められているのであろうと感じ、そうあることが正しいのだと信じ、そう見せるようにそれらしく振る舞ってきました。

けれども本当は、自己肯定感は皆無で、自己への信頼も愛情もなく、大きすぎるほどの劣等感を抱えて、いつも逃げ出したくて消えて無くなりたくて。その惨めさと虚しさを、ただただ妙なプライドでひた隠しにして、社会生活を送れている風に見せているだけ。それが私だと、私は知っています。

外から見られる自分との乖離に思い悩み、発狂しそうになりながらも、探すような自分があると思うほど子どもでも思春期でもないので、そういうものだと何とか呑み込んできました。

どうしてこんな風になってしまったのか。もしかしたら何かの積み重ねであったのかもしれないし、大きな原因があるのかもしれません。しかし、それを求めたところで何になるのか。私には原因を見つけることに、幸福への糸口があるようには到底思えなかったのです。

 

ここで、病歴について少しお話しさせていただきます。

自傷やODは、途中全く出なかった期間もありますが、かれこれ15年以上断続的に行っています(余談ですが、お風呂に入るのがとても苦手です)。通院は、中高生の頃の2年程度と、社会人になって数回通っただけです。中高生の頃は鬱や境界性人格障害と診断され、社会人の時には診断名こそなかったものの、睡眠障害と育成環境に難ありと見なされました(主に父との関係)。

私は自分自身の情緒が安定していないことを認めていますし、自傷行為をしてしまう自分が、大多数の人から見たら病んでいることを知っています。

しかし、鬱も境界性人格障害も自律神経失調症も、自分に大いに当てはまりながらも、服薬をしても楽になることもなく、根本の解決になったようには思えませんでした。これは最早病気でもなければ、性格の問題なのでは、といつの頃からか考えるようになっていたのです。

そんな調子ですから医師ともカウンセラーとも中々ソリが合わず、自分は寛解した大丈夫だと言い聞かせ、通院をやめました。社会人になってからは金銭的余裕もなく、予約を取って待合室で長時間待つという苦痛や、自分のことを洗いざらい話す辛さから、病院をハシゴすることもできず、数回で行くのをやめてしまいました。

 

私はいつも自分の選択を悔いてきました。進学や就職、友人や恋人、離職や日本を出て海外で幸福を探そうとしたこと。けれど、そのどれもがうまくいきませんでした。当然です。私は、自分の幸福というものがどんなものなのか、全く分かっていないからです。そうして、自分が持ちうる選択肢に正解はないのだと思い、諦め、期待しないことが容易であると感じるようになりました。

誰かと比べることは、不幸で疲弊しか生みません。死ぬ勇気のない私は、せめて苦しくない人生の消化方法を求めていて、それが凪いだ心を手に入れることでした。

自分にも他人にも期待しない。それが私の掲げる全てです。なってみたかった幸せというものは、もはやお伽話の世界のもので、せめて誰かに迷惑をかけたり傷つけたりしないようにしようと決めました。

 

最後に、家族の話をさせてください。

私がまだ小さかった頃、父母の仲は良好であったように思います。一緒に住んでいる父方の祖父母も、それなりに可愛がってくれていたように思います。しかし、当時から、母は嫁として血の繋がらないたった一人の人間として、祖母や叔母から心無い言葉を投げられていたようです。父も母も、姉と私のことを、出来る限り可愛がってくれています。それは知っています。

しかし、母は父を夫として立てることが全てであり、父は悪気なく人を傷つけることを言う人でした。その小さな種は、母を傷つけ、姉を傷つけ、姉は思春期には母といつも喧嘩をし、家にあまり寄り付きませんでした。

母にとってはちょっとした息抜きのつもりの行動(異性との連絡など)が父にバレ、激昂を買い、離婚する手前まで行ったことを覚えています。父は、急に怒ることのある人でしたが、母や姉に対してよりは、私には饒舌で良く笑い、一緒に居てくれていました。私さえ頑張れば、みんな少しは楽しく暮らせるだろうかと思ったこともありました(そんなことはないと気づくのですが)。

母や姉から言わせれば、私は父に似ており、家族間の潤滑剤であるそうです。確かに、母には、精神的に私に依存しているきらいが少しあるとは思っています。けれど少しです。

私が頑張って何とかなるのであれば、私はその役割を演じたいと思いました。だって、私はどうあがいても、「産んでくれてありがとう」とは言えないし、「生きていて良かった」と思えない、とんでもない親不孝な子どもなのです。それであれば、子育てに失敗してしまった哀れな両親のために何か少しでもしてあげたいと思ったのです。両親が、私と同様に、生きていることや長生きすることに興味を持っていないのも、彼らを哀れむ理由の一つかもしれません。

父も母も、不器用ながらも私を愛し、適切な学びを与え、大学まで出し、転職で給料の下がってしまった30手前の娘を家に置いてくれています。酷い暴力を振るわれた記憶もありません。

母は、ヒステリックになりやすく、アルコールに頼りがちな部分があり、やりたいことがやれなかった思春期と早くして上京したことによる孤独感と寂しさを抱えており、父は、コンプレックスとプライドがないまぜになったまま、思いやり方が下手くそで、幼少期に父母の怒鳴り声の中で育ったという経験があります。

双方に慮るべき事情があると知っています。今更彼らを恨んだところで、どうしようもないのだと分かっています。2人の頑張ろうとしたことを認めてやれなければ、私は自分がどこまでも哀れになってしまうように思えてならなかったのです。

自分のことばかりになってしまう私。他者を慮り続けられない私。そこに大嫌いな父方の祖母の影や両親の嫌なところを見ています。私は私に流れるこの血筋が大嫌いなのですが、生まれてきてしまったのですから、今更どうこうすることなどできません。

それであれば少しずつでも、期待と落胆を減らすこと。それだけが自衛の手段であり、これ以上自分とその周りを不憫で哀れなものにしない方法であると、信じています。


【執筆者】
燈子 さん

【プロフィール】
人生の半分をメンヘラとして過ごしてきた28歳。普通っぽい幸せに憧れ続けたものの、お手本のない世界で生きてきたので最近断念した。外国語が好き。
Twitter:@laluneest


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