私たち家族は、一つ屋根の下で暮らすことができなかった

体験談 家族 広汎性発達障害 sy

私は親に愛されてきたと思う。

それでもどこか生き辛い。発達障害のせいかもしれないし、違うかもしれない。

 

自分の整理のために、家族の話をしようと思う。

私の家は、両親に私と妹が1人の4人家族。両親は離婚済み(熟年離婚というやつ)で、妹は海外に留学に行っている。私は会社で事務の仕事をしており、寮に住んでいる。

父親はどこにいるとも知れず、母親とは月に一度会うか会わないか。妹とは仲がいいと思う。もともと趣味が同じこともあって、一緒に遊んだり今でも定期的に電話でお互いの近況報告もする。

私たちが今の形になったのは、過去のいろいろを踏まえての結果だと思っている。うちが機能不全家族というものかは正直よく分からない。ただ、私たちは一緒に住んでもお互いを傷つけるだけだと散々実感したことから今の形に落ち着いた。

 

私は両親に愛されてきたと思う。少なくとも覚えている限りは。

私がまだ幼かった頃、両親は仲が良かったように思えた。父は外出好きの新しい物好きで、娘に激甘だった。強請ればたいていのものは買ってもらえたし、年に一度東京に家族で旅行に出かけたりもしていた。母は良いものをたくさん見せてくれたし、私立の幼稚園、小学校に通わせて趣味の良い服も着せてもらえた。

しかし、それは父方の祖父の残した借金で急変した。

気付くと家は売りに出され、父は単身赴任し、私たちは3人で暮らしていた。父方の祖父が連帯保証人を務めていた会社が倒れたのだと聞いたとき、私は小学生か中学生かという年頃だった。社会に興味の無かった私は事の重大さを認識できず「ふーん。大変なんだね」と思った。反抗している場合じゃないな、と思ったことを覚えている。

当時の私にとって一番重要なことは、友人たちと一緒にいられるかどうかだった。家計が厳しい中、「公立受験をして欲しい」と言った母に対して、勉強に自信も無く友人と離れたくなかった私は父に強請り、そのままエスカレーター式の私立の高校に入った。学費は奨学金で賄った。

今思えば、当時の私は家計というものをまったく知らなかったし、知らなくて良かったと思っていたのだと思う。どこかで自分には関係の無いことで、大変なのは親たちだけだと思っていた。子供の自分には関係が無いと思っていた。

中学生の頃、すでに両親の仲は悪く、何かにつけしょっちゅう喧嘩をしていた。私は喧嘩の仲裁に入ることが多く、妹は喧嘩が落ち着くまで隣の部屋の片隅でじっとしていた。

そんなとき私は実に賢く立ち回っていたと思う。仲裁に入るとき、最終的には母の味方になり、父が母に強く出られないことを利用して喧嘩を収めた。そして喧嘩が落ち着くと父のところへ行き、どうか母と離婚しないでくれと下手に出て頼んだのだ。

当時の私は、両親が離婚したら自分が生きていく術が無いことを知っていた。母の話の聞き役になり、家族の中で居場所を作っていった。

 

そんなあるとき、父が祖母に呼ばれたからと出て行き、菓子を持って帰ってきた。私は父の足音がいつもと違うことに違和感を感じていたが、さほど気にしていなかった。

そして別の日、たまたま自分の携帯を忘れて父の携帯を借りたとき、操作が分からず偶然開いたメール画面には可愛らしい絵文字とともに「まだ食べていないの?早く食べちゃいなよ!」と肉体関係を匂わせるメールを見つけた。父は不倫していたのだ。

また同じ頃、たびたび父が隠れて借金をしていたのが見つかるようになり、母と大きく揉めていた。

そんなことから父親に対する不信感が高まっていた私は、父が単身赴任で遠くに行ったことに内心安堵していた。話を聞くと、母も、妹も、そう思っていたようだった。

 

高校3年生、当時の私は空間デザインに興味があったが詳しく調べなかったため、大学をどう選んでいいか分からずにいた。そして、勉強もまともにしていなかった。大学受験に失敗した私は専門学校という選択肢のため、そして狭い地元を抜け出すために、一人、父の暮らす東京へと向かった。

東京では私が専門学校に入るまでアルバイトをしながら、父と1Kの都心の部屋で二人暮らしをしていた。父は不摂生が祟り、糖尿病を患っていたので、毎日のお弁当は私が作ることになっていた。当時、私に料理の経験などほとんど無かった。

専門学校は奨学金を借りて通う予定だったが、報告連絡相談の機能が破綻していた我が家ではその伝達がうまくいかず、私は専門学校に入学できなかった。しかたなく、もう一年アルバイトをして暮らすことになり、そのうち母と妹も東京に来て、家族4人が1Kに住むことになった(飼っていた猫も来た)。

地元では犬を飼っていたが、東京の部屋ではとても飼えないと貰い手を捜すことになり、大事にしてくれそうな家族に引き渡した。人間が大好きな犬だった。私たちはその犬を大事にできなかった。

1年が経ち、私は専門学校に入学した。学校ではあんなに関心の無かった会計を勉強していた。税理士を目指そうとしていた。将来の仕事が見つからず困惑していた高校生の私に、母から勧められた資格の本の中からなんとなく向いてそうな税理士を選んだというのが理由だった。

奨学金について父から話があると言われ、聞くと「最高額を借りないと家族が生活できない、どうか最高額を借りるよう申請を出してくれないか」と言われた。私は泣きながら拒んだが、それでは生活ができないという言葉になす術もなくサインした。

ようやく1Kの部屋から2LDKの広い部屋への引越しが決まった。両親の仲は最悪で、父が家にいても私と妹が父と話すことは無かった。父は家にいる時間が短くなった。しかし、父は相変わらずイベントとサプライズが好きなままだった。お正月、だれも喋らない4人の食卓で父だけがご機嫌に年初の歌を流し、私たちに話しかけた。もしかしたら父も機嫌が良かったわけでなかったのかもしれない。私たちは徐々にそれぞれのプライベートに関わらなくなった。大人になったといえるのかもしれない。

その頃、妹と大喧嘩した。妹は小学校のときから不登校気味であり、高校生のときは私の机から盗んだカッターでリストカットをしていた。大学は看護の学校に行くのだと言っていた。

そんな妹と大喧嘩をし、言われた言葉は今でも覚えている。

「いい姉面するな!」

そのとき、私は初めてこれまで全くと言っていいほど妹に興味が無かったことを自覚した。両親のことと自分が生きることに精一杯で、家族に妹がいることを忘れていたのだ。あまりにひどい事実に泣きながら妹に弁解し、これまで私の目で見てきた家族の事実を語り、なんとか許してもらった。そこからは徐々に、一緒に宝塚を見に行ったり服を買いに出かけたり、お互いの状況を話すようになった。

 

専門学校を卒業し、私は寮に入って働きだした。妹も寮に入り、広い家に両親が二人だけになった。たびたびお金に苦労しているという話を母から聞いた。

初めてボーナスが入った夜、何に使うか胸を躍らせているところに父から連絡が来た。「30万、明日までに貸してくれ」という。我を忘れて怒鳴り散らしたことを覚えている。何を言ったかは覚えていない。それからも父はたびたびお金の工面の電話をしてきた。

「ついに家賃が払えなくなった」と連絡がきた。私は父を捨てることにした。母が猫と一人暮らしができるように部屋を探し、お金を払い、家電を揃えて母はそこに引っ越した。

そんなことになっても父は私に借金を押し付けたりはしなかったし、暴力も振るわなかった。冷たく突き放すことも無かった。母は当初一緒に暮らそうと言っていたが、私が拒否したため一人暮らしをしている。

そして今、父はどこにいるとも知れず、母は掃除の仕事をしながら一人暮らしをして、私は転職を模索し、妹は留学のため海外へ旅立った。

 

私は発達障害の診断を下され、なんとか生きている。

私たち家族のことを思い出すと、みなが加害者でみなが被害者だったと思う。私たちは離れて暮らすことしかできなかった。私たちは一つ屋根の下で暮らすことができなかった。

私は今でもどこか苦しい。こんな私が苦しんでいいのだろうか。苦しむ資格はあるのだろうか。

私の話に付き合ってくれてありがとう。


【執筆者】
sy さん

【プロフィール】
なんとなく生き辛い人。発達障害もち。
Twitter:@sn9899


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2件のコメント

mynameisSecret 返信

こんにちは、大切なお話をありがとうございました。読んでいて心が苦しくなってきました。私も発達障害と診断されています。両親の経済状況をわたしの病気のせいで、圧迫させてます。今就職活動中です。
syさんは強くてかっこいい人ですね。心が苦しすぎてうまく文章を書くことができませんでした。syさん、文をメンヘラjpに寄稿してくれてありがとうございました!

sy 返信

もったい無い言葉をありがとうございます。自分の整理のために書きましたが、そう言っていただけて書いてよかったと思いました。ありがとう。

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