震災の日、一度死んだ私

体験談 不登校 精神科入院 自殺未遂 身体障害 OD 二川朔子

はじめまして。
二川朔子(ふたがわ さくこ)と申します。

たまたま今日メンヘラ.jpに流れ着き、青さんの書かれた『自殺未遂が未遂に終わって、8年目のボーナスステージを生きている私』を読んで、自分の体験談も投稿してみたくなりました。

私は以前自殺未遂をした事のあるアラサーの独身女です。

青さんと同じく、今の人生はボーナスステージだと思っています。

長くなってしまいますが、私のこれまでの人生を読んでいただけたら嬉しいです。

私は東北の田舎出身で、生まれつき片耳が聞こえない障害を持っています。

騒がしい場所だったりすると相手の話が聞き取れなかったりする事はありますが、日常生活に支障はないですし、耳さえ隠していれば障害が他人に気づかれることもありません。

障害者手帳は持っていませんが、申請すれば貰えるみたいです。

障害がある事で、幼い頃は母に連れられて色々な病院に行きました。

小学生の時には、数年間かけて東京の病院に入院し形成手術を受けました。

そのせいか、私は標準語を先に覚え、地元の訛りが下手くそです。

地元の訛りは理解できるけれど、その訛りを自然に話すことはできない。

そういうこともあり、周りと上手く馴染めませんでした。

幼稚園児の頃から人付き合いが苦手でした。

どうやって友達と仲良くなったらいいかわからなくて、人見知りでした。

そして大人も含めて周りからは「変わってる」と言われてきました。

自分では普通にしているつもりだけど、普通の仲間に入れない。

友達はいたけれど中学生時代は同学年の男子に無視されていたし、下の学年の子達にもバカにされるような存在でした。

高校に入ってから、だんだんと学校に行けなくなりました。

一番は、朝に起きれない。

都会と違って、田舎の電車は一時間に一本あるかないかです。

遅刻が増え、遅刻が続くと行きたくなくなり、休むようになると授業についていけなくなり、授業についていけなくなるとますます学校に行きたくなくなりました。

悪循環です。

部活にも入っていたけれど、休みがちでド下手くそだったし、話せる人も少なくてその場にいるのもつらかったし、正直自分がいる意味ないなぁって思って最終的に辞めてしまいました。

そうしてとうとう、不登校になりました。

不登校になってから、元々良くなかった家の中の空気が更に荒れていきました。

父は怒鳴る、母はヒステリックになる、毎日、特に朝が来るのが苦痛でした。

古い家でどの部屋も引き戸で鍵もかけられなかったので、自分一人の空間を作りたくてガムテープを貼ったりカーテンで目隠しをしたりとせめてものバリケードを作りました。

その頃親と言い争いになった時は、力任せに戸を締めてすりガラスが割れたり、蹴った壁に穴が開いたりで、怒りの感情を抑えることが出来なませんでした。

私のせいで、家の中の雰囲気は最悪でした。

今思うと、弟と妹には本当に申し訳なかったな……。

それでも、当時の担任と学年主任が本当にいい人で、別室登校をしながらなんとか卒業できることになり、おまけにセンター受験で大学に進学する事も出来ました。

本当に感謝しかない。

ただ、進学した大学でも不登校になって中退してしまったんだけど……。

進学した大学は、資料こそ取り寄せて見たものの一切事前に自分の目で見ることなく決めてしまい、実際に行ってみると周りの学生の雰囲気が合わず、専門科目も興味が持てない物ばかりでした。

この頃、だんだん精神的に不安定になってきて、自殺願望が高まり、通っていたクリニックの判断で母が呼ばれ下宿先から自宅に連れ戻される事になりました。

一度休学して復学するものの、再度精神が不安定になり、結局そのまま中退する事になりました。

正直、大学生時代から25歳くらいまでの記憶はブツ切れだったり無かったりして曖昧です。

地元の精神科では一日に20錠以上の薬が処方されていて、毎日ほとんどの時間を寝て過ごしていました。

生きているんだか死んでいるんだかわからない状態。

そんな中、ある日の夜に祖母に怒られた事がきっかけで、死のうと思ってその時手元にあった薬を全部飲みました。

いわゆるオーバードーズというやつ。

意識が朦朧とする中、母が異変に気付いたようで、私は車に乗せられて病院に連れていかれました。

次に激しい痛みと苦しさに襲われた時、私は胃洗浄(?)をされていたらしい。

結局死ねなかった。

死ねなかったけど自殺未遂をした私はそのまま閉鎖病棟に入院する事に。

閉鎖病棟はすごく異質な場所でした。

田舎の古い病院だからか、窓には鉄格子がはめてあったり、他にも色々。

私はその閉鎖病棟がすごくイヤで、しばらくして先生に普通の病棟に移して貰うよう直談判しました。

先生に許可して貰い普通の病棟に移り、精神状態が落ち着いた頃に退院。

退院後は通院しながら仕事をしたけれど、すぐ休んだり職場で居眠り(薬のせいで常に眠い)したりして周りから白い目で見られるようになり、自分自身もつらかったので退職しました。

その後は何かの下請けの下請けの下請けみたいな仕事をしてお小遣いを稼ぐような生活を送っていました。

そしてあの日。

たまたま具合が悪くて仕事を休んで妹と家にいたその日、大きな地震が起きました。

突然の事で、自分たちの日常が失われてしまうなんて想像だにしなかった。

避難所で他の家族と会えたのは翌日、翌々日のことでした。

父に会いに行くと連れていかれたのは小学校でした。

他に一緒だった人達が泣いていたから、なんとなくわかっていました。

父は津波に飲み込まれ亡くなっていました。

遺体確認にまず母と長女の私が呼ばれました。

母は小刻みに震えて涙声になっていました。

父と対面した妹は泣き崩れ、弟も泣いていました。

私は泣けないと思いました。

長女の私がみんなの前で泣いちゃいけないと思いました。

しっかりしなければ、と思いました。

それから色々あって、今私は関東で一人暮らしをしながら専門学校に通っています。

今も病院には定期的に通っているけれど、今の主治医に巡り会えて以前よりずっと良い状態になってきていると思います。

結果的に、私が現実を生きるきっかけになったのは震災でした。

父が死んで、死のうとした私が生き残ってしまった。

なんて皮肉。死ぬべきなのは私だったのに。

だから思う。私は震災の日に一度死んだんだと。

それまでの薬漬けで生きてるんだか死んでるんだかわからない生活をしていた私はあの日に死んで、今はおまけの人生を貰っているんだ。

だからおまけの人生は、なるべく後悔のないように、自分から死んだりしないように生きよう、そう思っています。

死にたくなる事なんて今もしょっちゅうだし、相変わらず生きるのは下手くそだけど。

でも、生きようとしている今は、以前より確実に幸せです。


【執筆者】
二川朔子(ふたがわ さくこ) さん

【プロフィール】
東北の田舎生まれ。アラサー独身女。
体力なし子。人づきあいが苦手。
猫をかぶって生きてます。

不定期にメールマガジン配信中。
[オドラデク]


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