「目標は過労死!」暴走した承認欲求が導き出した、完全に狂った結論
前回の記事を軽くおさらいしよう。
就活中の春に芽生え膨れ上がった「私の苦痛の存在を、彼にだけは絶対に認めさせたい」という歪んだ承認欲求。それは今考えればあまりにも不毛で痛々しいものだった。私は「危険な承認欲求の使い方」をしていた。
今回は「的外れな承認欲求」の話だ。あまりにも的外れすぎるので、もはや喜劇だ。ご笑覧いただければ幸いである。
時系列は前回の続き、つまり就活を終えた頃からだ。
さて、不毛な承認欲求を抱き続けていた私。当然満たされることのないまま、ただ時間だけが過ぎた。夏が過ぎる頃には、承認してほしい対象が、当時付き合っていた彼の一人だけでなく、私を知っている人すべてに拡大していた。
私の苦痛の存在を、みんなに認めさせたい。
私が頑張っていたということを、みんなに認めさせたい。
またしても不毛なこの欲求は、冷静に考えたら大きな声では言えないような言葉に置き換わった。
「そうだ、私が働いて働いて働いて死ねば、みんな『この人は頑張ったんだな、頑張りすぎて死んじゃったんだな』とわかるはずだ。
よし、頑張って働きまくって、いつか過労死してやる!」
秋のある日、友人たちと酒を飲みながら、なんとなくこの決意を口にしてしまったことがある。
「私の夢は過労死なんだ!」と。
すると、友人の一人がサッと眉をひそめた。そして、「過労死って……。そういうこと簡単に言っちゃダメだよ、090ちゃん」と小さな声で注意してくれた。本当にその通りである。
しかし、ここで「そうか、過労死なんて簡単に考えちゃいけないよね。もっと自分を大事にしよう!」と当時の私は考えなかった。
「ああ、もしかしたら友人の身の回りに過労死した人がいるかもしれないし、ここは公共の場、身内が過労死した人たちもいるのかもしれない。発言には気をつけなきゃなあ。反省。」
この程度である。考えを改めるということは全く頭になかった。
また、別のある日、すでに社会に出て働いている友人と話していた時にも、なぜかうっかりこの「夢」を口にしたことがある。するとその人は、「過労死は、意外と大変だよ。そうそうできるものではないよ」とだけ教えてくれた。
私はその言葉の重みを受け止め、「そうなんだ。過労で死ぬのって思ってるより大変なのかな。気合い入れてやんなきゃな」と思った。当時の私の精神状態は完全にイカれている。
「私の苦痛や頑張りをみんなに認めさせたい」という欲求が、生存したいという人間の本能を完全に押さえつけている。承認欲求を優先した結果、自分の存在がどうでもよくなる。今思えば絶対に間違った目標と達成の方法だ。
それでも、その時の私は承認欲求の達成が最優先だったため、全く「おかしい」とも「間違っている」とも思わなかった。むしろ、それが唯一正解の道として、絶対的な存在感を放っていた。
そして頭がイかれたまま、私は社会人になった。
入社後、様々な研修があった。
苦手な業務の研修が数日にわたって続き、睡眠時間や休憩時間を削って仕事を覚えようとしても思わぬ場所でミスを連発し、職場では早くもボスザル的な女に目をつけられ、毎日毎日先輩方から聞こえる声で陰口を言われたり暴言を吐かれたりして、私は思ったより早くボロボロになっていた。自分の中ではかなり精一杯で、というか完全にいっぱいいっぱいで、気を抜くと涙が出そうになるのを堪えながら、なんとか研修を続けていた。
ある日のフィードバックで、職場内では比較的中立の立場にいる上司からこう言われた。
「もっと頑張ってるアピールしないと、教える方も嫌になっちゃうよ」
私は頭が真っ白になった。
「頑張ってるアピールって、どうやるんですか」
そう反射的に口から出てしまった。
答えはよく覚えていないけれど、同僚たちの前でこれ見よがしにメモを確認しまくるとか、そういった行為が必要らしい。もう何が何だかわからなかった私は、ただ「わかりました。ありがとうございました」とだけ答えて、その日を終えた。
「頑張ってるアピール」という言葉だけが頭の中をぐるぐると回り続けた。
なぜ上司は「頑張ってるアピールをしろ」と言ったのか。
単に「あなたが頑張っているように見えない」と伝えたかったのではないだろうか。
仕事で評価されたいという気持ちはそんなになかったけれど、お前は頑張っていないと言われると、やはり落ち込んだ。
そうかあ。私、頑張ってるつもりだったんだけど、頑張ってなかったんだ。そう言われちゃ仕方ないよなあ。私が頑張ってるかどうか決めるのは、やっぱり私じゃなくて、「みなさん」なのだ。
その翌日から、頑張ってるアピールのような行為もしてみたが、当然なんの効果もなかった。
それでも最初よりいくらか仕事はできるようになっていた。ある日、先輩方が私のことを「存在するだけでイライラする」と言って談笑するのが聞こえた。涙が出そうになったが、泣いたところでどうにもならないから堪えた。私も私が存在するだけでイライラするから仕方ない。
その研修の最終日前日、夕食を摂ろうと同期と立ち寄ったファストフード店で、私はドリンクのコップを倒してしまった。トレー中に広がったコーラと氷の粒を見て、涙が止まらなかった。目の前に座っていた同期がとても驚いていた。
そこから数週間経ってから、私は全てを悲観して、自分に絶望して、自殺を試みた。それでも死ねなかった。私はメンタルクリニックへ通い始め、仕事は休職になった。
さて、休み始めた私といえば、承認欲求どころではなかった。薬でぼーっとした頭の中に希死念慮がひしめいていた。
さらに、休職中に家族や友人、当時付き合っていた彼からどんなに「辛かったんだね」「もう頑張らなくていいよ」といった、喉から手が出るほど欲しかった言葉を受けても、それを全部はねつけてしまうようになっている自分に気づいたのだが、その話はまた今度。
歪んだ承認欲求が膨らんだ結果、「私が辛かったこと、頑張っていたことを、過労死することでみんなに認めさせたい」という、あまりにも自暴自棄な気持ちが生まれた。
誰にも知られないように、誰にも心配されないように、表向きは元気に働き続けて突然死んで、「過労死」という認定を受ければ、公的にも私的にも私の苦痛が認められ、私は報われ、満足するだろう……という、あまりにも浅はかな考え。これはあまりにも的外れで不毛な承認欲求だったと思う。
まず、「自身の死によって承認されたい」という考えが間違っている。どんな承認欲求も、死んだところで報われるはずがないのである。
理由は簡単だ。死ねば、物体としての私は消える。誰に何を言われても聞こえるはずもない。嬉しいと感じる心すら燃えてなくなる。死んでから認めてもらったところで、死んだ私は一体どうやってそれを知ればよいのだろう。無理だ。
「過労死すれば、私が頑張っていたことをみんなに認めてもらえるはずだ」という信念をごく普通に抱いた私は、相当なクルクルパーである。笑うしかない。
では、私はどうやって「みんなに私の頑張りを認めさせ」ればよかったのか。答えはもう上に書いてある。
「頑張ってるアピール」をすること。
ただそれだけ。上司のアドバイスは的確だったのだ。
見えないものは評価しようがない。
頑張っている様子も、結果もなければ、評価などできるはずがない。
それなのに、私は目に見える結果も出せないくせに、努力も苦行も誰の目に見えないようにコソコソやっていた。私が「頑張っている」という評価を得られないのは、当然のことだったのである。そんなこともわからないで二十数年、よく生きてこられたものだと自分でも感心する。
だから、今「誰にも私の〇〇がわかってもらえない」「私の〇〇を誰も見てくれない」という、他者へ向けた承認欲求をこじらせているあなたには、以下の2つのことをチェックしてほしい。
1.あなたの持つ欲求に対して、目標の立て方は間違っていないか?
「死ぬ」が目標に含まれてはいないか?
2. 認めてほしいことを、認めてほしい人に対して適切にアピールできているか?
もし、このチェック項目のどちらかに引っかかってしまう人がいたら、ちょっと立ち止まってほしい。そしてちょっとだけでいいから方針を変えてみてほしい。
今より少しだけ、あなたの気持ちが楽になるかもしれないから。
【執筆者】
090 さん
【プロフィール】
会社員時代の自殺が未遂に終わり、いろんな意味で「サービスで生きてる」無職。生きてる以上、楽にやっていきたい。少しでも死にたい人のお役に立てればと思います。
Twitter:@oqo_me_shi
就活中の春に芽生え膨れ上がった「私の苦痛の存在を、彼にだけは絶対に認めさせたい」という歪んだ承認欲求。それは今考えればあまりにも不毛で痛々しいものだった。私は「危険な承認欲求の使い方」をしていた。
今回は「的外れな承認欲求」の話だ。あまりにも的外れすぎるので、もはや喜劇だ。ご笑覧いただければ幸いである。
時系列は前回の続き、つまり就活を終えた頃からだ。
さて、不毛な承認欲求を抱き続けていた私。当然満たされることのないまま、ただ時間だけが過ぎた。夏が過ぎる頃には、承認してほしい対象が、当時付き合っていた彼の一人だけでなく、私を知っている人すべてに拡大していた。
私の苦痛の存在を、みんなに認めさせたい。
私が頑張っていたということを、みんなに認めさせたい。
またしても不毛なこの欲求は、冷静に考えたら大きな声では言えないような言葉に置き換わった。
「そうだ、私が働いて働いて働いて死ねば、みんな『この人は頑張ったんだな、頑張りすぎて死んじゃったんだな』とわかるはずだ。
よし、頑張って働きまくって、いつか過労死してやる!」
■「夢は過労死!」
秋のある日、友人たちと酒を飲みながら、なんとなくこの決意を口にしてしまったことがある。
「私の夢は過労死なんだ!」と。
すると、友人の一人がサッと眉をひそめた。そして、「過労死って……。そういうこと簡単に言っちゃダメだよ、090ちゃん」と小さな声で注意してくれた。本当にその通りである。
しかし、ここで「そうか、過労死なんて簡単に考えちゃいけないよね。もっと自分を大事にしよう!」と当時の私は考えなかった。
「ああ、もしかしたら友人の身の回りに過労死した人がいるかもしれないし、ここは公共の場、身内が過労死した人たちもいるのかもしれない。発言には気をつけなきゃなあ。反省。」
この程度である。考えを改めるということは全く頭になかった。
また、別のある日、すでに社会に出て働いている友人と話していた時にも、なぜかうっかりこの「夢」を口にしたことがある。するとその人は、「過労死は、意外と大変だよ。そうそうできるものではないよ」とだけ教えてくれた。
私はその言葉の重みを受け止め、「そうなんだ。過労で死ぬのって思ってるより大変なのかな。気合い入れてやんなきゃな」と思った。当時の私の精神状態は完全にイカれている。
「私の苦痛や頑張りをみんなに認めさせたい」という欲求が、生存したいという人間の本能を完全に押さえつけている。承認欲求を優先した結果、自分の存在がどうでもよくなる。今思えば絶対に間違った目標と達成の方法だ。
それでも、その時の私は承認欲求の達成が最優先だったため、全く「おかしい」とも「間違っている」とも思わなかった。むしろ、それが唯一正解の道として、絶対的な存在感を放っていた。
そして頭がイかれたまま、私は社会人になった。
■「もっと頑張ってるアピールしないと」と言われて
入社後、様々な研修があった。
苦手な業務の研修が数日にわたって続き、睡眠時間や休憩時間を削って仕事を覚えようとしても思わぬ場所でミスを連発し、職場では早くもボスザル的な女に目をつけられ、毎日毎日先輩方から聞こえる声で陰口を言われたり暴言を吐かれたりして、私は思ったより早くボロボロになっていた。自分の中ではかなり精一杯で、というか完全にいっぱいいっぱいで、気を抜くと涙が出そうになるのを堪えながら、なんとか研修を続けていた。
ある日のフィードバックで、職場内では比較的中立の立場にいる上司からこう言われた。
「もっと頑張ってるアピールしないと、教える方も嫌になっちゃうよ」
私は頭が真っ白になった。
「頑張ってるアピールって、どうやるんですか」
そう反射的に口から出てしまった。
答えはよく覚えていないけれど、同僚たちの前でこれ見よがしにメモを確認しまくるとか、そういった行為が必要らしい。もう何が何だかわからなかった私は、ただ「わかりました。ありがとうございました」とだけ答えて、その日を終えた。
「頑張ってるアピール」という言葉だけが頭の中をぐるぐると回り続けた。
なぜ上司は「頑張ってるアピールをしろ」と言ったのか。
単に「あなたが頑張っているように見えない」と伝えたかったのではないだろうか。
仕事で評価されたいという気持ちはそんなになかったけれど、お前は頑張っていないと言われると、やはり落ち込んだ。
そうかあ。私、頑張ってるつもりだったんだけど、頑張ってなかったんだ。そう言われちゃ仕方ないよなあ。私が頑張ってるかどうか決めるのは、やっぱり私じゃなくて、「みなさん」なのだ。
その翌日から、頑張ってるアピールのような行為もしてみたが、当然なんの効果もなかった。
それでも最初よりいくらか仕事はできるようになっていた。ある日、先輩方が私のことを「存在するだけでイライラする」と言って談笑するのが聞こえた。涙が出そうになったが、泣いたところでどうにもならないから堪えた。私も私が存在するだけでイライラするから仕方ない。
その研修の最終日前日、夕食を摂ろうと同期と立ち寄ったファストフード店で、私はドリンクのコップを倒してしまった。トレー中に広がったコーラと氷の粒を見て、涙が止まらなかった。目の前に座っていた同期がとても驚いていた。
そこから数週間経ってから、私は全てを悲観して、自分に絶望して、自殺を試みた。それでも死ねなかった。私はメンタルクリニックへ通い始め、仕事は休職になった。
さて、休み始めた私といえば、承認欲求どころではなかった。薬でぼーっとした頭の中に希死念慮がひしめいていた。
さらに、休職中に家族や友人、当時付き合っていた彼からどんなに「辛かったんだね」「もう頑張らなくていいよ」といった、喉から手が出るほど欲しかった言葉を受けても、それを全部はねつけてしまうようになっている自分に気づいたのだが、その話はまた今度。
■綺麗なまでに的外れな承認欲求を持つあなたへ
歪んだ承認欲求が膨らんだ結果、「私が辛かったこと、頑張っていたことを、過労死することでみんなに認めさせたい」という、あまりにも自暴自棄な気持ちが生まれた。
誰にも知られないように、誰にも心配されないように、表向きは元気に働き続けて突然死んで、「過労死」という認定を受ければ、公的にも私的にも私の苦痛が認められ、私は報われ、満足するだろう……という、あまりにも浅はかな考え。これはあまりにも的外れで不毛な承認欲求だったと思う。
まず、「自身の死によって承認されたい」という考えが間違っている。どんな承認欲求も、死んだところで報われるはずがないのである。
理由は簡単だ。死ねば、物体としての私は消える。誰に何を言われても聞こえるはずもない。嬉しいと感じる心すら燃えてなくなる。死んでから認めてもらったところで、死んだ私は一体どうやってそれを知ればよいのだろう。無理だ。
「過労死すれば、私が頑張っていたことをみんなに認めてもらえるはずだ」という信念をごく普通に抱いた私は、相当なクルクルパーである。笑うしかない。
では、私はどうやって「みんなに私の頑張りを認めさせ」ればよかったのか。答えはもう上に書いてある。
「頑張ってるアピール」をすること。
ただそれだけ。上司のアドバイスは的確だったのだ。
見えないものは評価しようがない。
頑張っている様子も、結果もなければ、評価などできるはずがない。
それなのに、私は目に見える結果も出せないくせに、努力も苦行も誰の目に見えないようにコソコソやっていた。私が「頑張っている」という評価を得られないのは、当然のことだったのである。そんなこともわからないで二十数年、よく生きてこられたものだと自分でも感心する。
だから、今「誰にも私の〇〇がわかってもらえない」「私の〇〇を誰も見てくれない」という、他者へ向けた承認欲求をこじらせているあなたには、以下の2つのことをチェックしてほしい。
1.あなたの持つ欲求に対して、目標の立て方は間違っていないか?
「死ぬ」が目標に含まれてはいないか?
2. 認めてほしいことを、認めてほしい人に対して適切にアピールできているか?
もし、このチェック項目のどちらかに引っかかってしまう人がいたら、ちょっと立ち止まってほしい。そしてちょっとだけでいいから方針を変えてみてほしい。
今より少しだけ、あなたの気持ちが楽になるかもしれないから。
【執筆者】
090 さん
【プロフィール】
会社員時代の自殺が未遂に終わり、いろんな意味で「サービスで生きてる」無職。生きてる以上、楽にやっていきたい。少しでも死にたい人のお役に立てればと思います。
Twitter:@oqo_me_shi
募集
メンヘラ.jpでは、体験談・エッセイなどの読者投稿を募集しています。
応募はこちらから
メンヘラjp公式ツイッターはこちらから
Follow @menhera_jp__