身を切るほどの「寂しさ」について

体験談 死にたい りん さびしさ

年末は過ぎさり、もう新年である。この期間、わたしが最も感じた感情は、去りゆく年をみつめるノスタルジーでもなく新年をむかえるめでたさでもなく、ただただ、さびしさだった。

さびしさ、それは、これまで幾度となく私を苦しめてきた感情である。

もう寂しさは致死量を何度も超えてるはずなのに、なんで死なないんだろうといつも思う。もし、寂しさが一定以上溜まったら死ぬシステムなら、今まで300回以上死んでいるだろう。

さびしさの理由は、孤立。

四半世紀以上もこの地球にいきているのに、信頼できる人も、なんでも話せる人も、一人もいない。人間という生き物がこれだけいて、私もそのうちの一人のはずなのに、なんで、ひとりも、心の底から友達と思える人がいないんだろう。ほんとうに自分は人間なんだろうかと訝しむレベル。もしかしたら、私と、他者のあいだには、人間と宇宙人ほどの隔たりがあるのかもしれない。

たまらず、ネットで孤独とかさびしさと検索すると、決まって出てくるのは、孤独を楽しめ、やら、人生には一人期間が必要だ、やら、孤独は人を強くする!やらと主張する記事である。そんなんじゃねえよ、と叫びたくなる。

わたしが感じているのは、のたうち回るような、七転八倒するような、痛みのようなさびしさなのだ。とても平常ではいられない。楽しんだり、自己啓発の道具にしたりなどする余裕なんてない。概念として自分の外に置いてながめることなどできない、もっと生理的な、原始的なものである。さびしさが血流とともに全身を回っていて生物としての恒常性を脅かす勢い。五臓六腑にたまったさびしさの毒が、今内壁に穴を開けつつあるのかもしれない。

本当に、砂漠で何日もさまよった人が水を渇望するように、さびしさを潤すものを渇望している。けれど、それがなにかよくわからない。人との信頼関係、絆、そういったものだと思うけど、あまりに今の自分から遠いところにあるし、どうやってそこにたどり着けばいいかまるでわからない。相手ありきだし、努力でなんとかできるものでもない。

人と関わることの抵抗感、苦しさは拭えないし、自分の中身の空っぽさを見抜かれるのが怖い。失望されるのが怖い。人と親密になることが怖い。

湧いてくるさびしさは結局、その都度死ぬ気で紛らわすしかない。

そうして、正月(お、をつけるほどめでたくもない)ひとりぼっちの部屋で缶ビールをあおり、この駄文を書くに至った。

ただひとつ、(酒が回った頭で)言いたいことがあるとすれば、もしこれを読んでいる人がさびしさを感じているなら、あなただけじゃない、ということである。

正月、より強まった寂しさを抱き一つわかったことは、人との比較で孤独は加速するということ。あけおめラインの数、年賀状、一緒に過ごす人、新年を祝うことのできる状況、持てる希望の数、そういったものを他者比べたとき、寂しさは絶望的に深くなる。それに加えて、ひとりぼっちでいることの恥ずかしさが鋭い角度から絶望に拍車をかける。SNSは大敵。

でも、もし、世界が友達が一人もいない人だけで構成されていたら。比較しても寂しさは強まらないし、恥ずかしさもないだろう。それが普通だから。

だから、わたしは、すくなくともこの場では恥じることなく、言おうと思うのである。友達いないし、すごくさびしいです。あなただけじゃない。



【執筆者】
りん さん

【プロフィール】
20代。不安障害と診断ことあるいま症状ほとんどない、死にびしだけ残っ


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3件のコメント

ミフィ 返信

自分も寂しさで死にそうになる。耐えきれなくて実家に戻るしかなかった。

返信

私だけじゃない。救われました。

まり 返信

私も寂しいです。周りと比べなくてもいい世界があればいいのにと思っています

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