死を考えることは生きること ─希死念慮にかられたときの思考転換法

ライフハック 死にたい 希死念慮 田原涼音

こんにちは。田原涼音(タハラスズネ)と申します。
きょうもがんばって生き延びたなぁ。皆様もおつかれさまです。

まず、本文の前に簡易的な自己紹介を。

現在看護系大学の3回生(21歳)で、中高一貫校の出身です。中学の頃から付き合い続けている彼氏がいるのですが、彼とはいろいろあって、その影響もあって中3から摂食障害を発症しました。拒食・過食嘔吐を経て高2になるころにはまともにごはんを食べられるようになったのですが、メンヘラ傾向は完治せず。実習前には心療内科にかかるなど、幼いころからの希死念慮とともにまだまだ安定しない日々を送っています。

と、まあこんな感じなのですが……。

この記事では「死を考えること」「希死念慮で自責にかられたときの思考転換法」について書いていきたいと思います。

――― ――― ―――

生と死は相反するようでいて、実際のところはほぼ同等だと私は思っています。

詳しく言うと……

「生きること・生存すること」と「死ぬこと・死亡すること」は違うけれども、

「生きてゆくこと」と「死にゆくこと」は同じであると思う。

私たちは鼓動を刻むたびに死に近づいているし、その瞬間毎に死んでいる。

Mr.Childrenの『通り雨』の歌詞にもあるように、生まれた瞬間からゆっくりと死んでゆく、のです。

即ち、私たちが「生きる」ことについて考えることは大局的に見れば『死ぬ』ことについて考える、ということであるし、私たちが『死ぬ』ことについて考えることは大局的に見れば「生きる」ことについて考える、ということでもあると思っています。

だからどう足掻いたって、私たちは生きることについて考えているし、死ぬことについても考えているということになる。

しかし、『死』を考える、『死』について考えることは「生きる」ことにおいては実際非生産的で、

なにせ先のことや現実的なこと、生きる術について考えないから。

より良く生きようと考えたり、行動しないから。

その代わり、私であれば、どう死のうか・いつやろうか、誰がどのように反応してくれるだろうか、後処理が楽な方法は?、演出はどのようにするのが私の好みか、なあんて非現実的なことを妄想します。

でも、この、「死」について考えることも1つ現実的な役割を持っていると思っていて。

それが、心を守ること。

そもそもなんで「死」について考えるかって、現実を見たら心が壊れてしまうから。

心を守るための防衛反応。

確かに非生産的行為ではあるのだけれど、無意味な行為ではない。

立派な反応、それも、生きるための反応だと思うのです。

――― ――― ―――

じつはこれは希死念慮がやってきた時、「死にたいなんておもっちゃだめだ」と自責したときの言い訳です。でもずっと自責し続けるよりマシだと思うので、あなたにとって使えそうな考え方なら、是非使ってみてください。

「死」について考えることは悪いことじゃない。考えて楽な心地になるのなら、思い切って心をトリップさせちゃいましょう。


【執筆者】

田原涼音(タハラスズネ) さん
【プロフィール】

看護系大学3回生。中高一貫出身。摂食障害(拒食、過食嘔吐)経験有。
自傷癖がたまに顔を出す。いろいろありながらも10年ほど付き合っている彼氏がいます。ほんと、いろいろ。


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