私がキリスト教会を離れた理由 メンヘラは神に救われるのか

体験談 発達障害 自閉症スペクトラム 宗教 広尾蘭 気分変調症(持続性抑うつ障害)

こんにちは。
以前、広尾蘭というHNでメンヘラ.jpに文章を掲載していただいた者です。

診断は自閉症スペクトラム(発達障害)と気分変調症です。

私は以前、キリスト教の教会で洗礼を受け、教会に通っていました。

【関連記事】
・宗教とメンヘラの関係性 信仰一世が見た伝統派キリスト教会について

しかし、今は通っていません。

なぜ、そうなってしまったのか。

そして、教会に通わなくなって気がついた、なにかを「信じることができる」人と「信じることができない」人の存在について、書かせていただきたいと思います。

 

信仰の賞味期限は3年


私がキリスト教の教会で洗礼(入信の儀式)を受けて、クリスチャン(キリスト教徒)になったのは20代後半のこと。それから数年が経って、私は見事に教会に通わなくなってしまいました。

通い始めたのはもう少し前ですが、教会にまったく行かなくなってしまったのは、洗礼を受けてから、ちょうど3年が経つころのことでした。キリスト教の界隈には「信仰の賞味期限は3年」という言葉があります。

これは、クリスチャン(キリスト教徒)になったばかりのころは、神に、信仰に、燃え上がっているけれども、結局は3年くらいで教会を離れてしまう人が多い、という経験則を表した言葉です。

趣味のコミュニティに関わっている人は、同じような経験があるのではないでしょうか。初心者のころは、的外れな発言をしたり、不必要にイキったりしてしまうのは、誰にでもあること。

キリスト教をはじめ宗教でもそうなのです。

私は、まさか自分が、教会に行かなくなってしまうだなんて思ってもいませんでした。

50代でも若手とされる、高齢化著しいキリスト教会で、年少の信徒(信者)として可愛がられ、居心地もとてもよかった。

普通に通っていて、やっと初心者ならではの痛さが抜けてきた自分は、自然体で教会に通えると思っていたのです。

しかし、結果として見事に、ほぼ3年ちょうどの時期に教会を離れてしまったのでした。

 

距離感を詰めすぎる失敗


教会に通わなくなった直接的な要因は、2人の牧師に相次いで叱られたことでした。

このサイトに投稿していることからもわかるように、私はメンタルを病んでいます。

そんなメンヘラな私は、2人の牧師に対して、精神的なことを相談していました。

ところが、あるときに、あまりにも情緒不安定すぎることについて叱りを受けたのです。

理由は、あまりにも赤裸々に、情緒不安定な胸の内をぶちまけすぎたため。夜中に長文でメッセージを送ったり、性的なことについての悩みを投げつけたり。そのときの私は、それくらいに精神を乱している状態でした。

キリスト教の教会の牧師が、どうしてメンタルを病んでいる人を叱りつけるのか?

叱りつけてよいのか?

そう思う人もいると思いますが、私は、叱られたことは正当だと思っています。

相手が宗教者、聖職者だと思って、メンヘラである私は助けてもらって当然、というおごりがあった。そして、牧師も人間であるのに心理的距離を勝手に詰めすぎた。

自閉症スペクトラムならではの失敗だと思います。

とはいえ、これだけなら、単に牧師に叱られて、凹んで教会に行かなくなってしまったという話にしかなりません。

私がキリスト教の教会に行かなくなったのは、自分の行動が怖くなったからなのでした。

 

発達障害ゆえのモンスターになりたくない


私が教会に行かなくなってしまった根本的な理由。

それは、自分がモンスターになってしまうことが怖かったからでした。

つまり、万が一にも自分が「狂信者」になってしまうことが怖かったのです。

私が通っていた教会には、若手の信徒の方に、おそらく自閉症スペクトラムであろうと思われる人がいました。

その人は、神を信じていました。

心の底から信じていました。

だからこそ、その人は生きてこれたのだ、と思うくらいに神を信じていました。

しかし……。

「神を信じる」がゆえに脳にインストールされてしまった世界観や物事についての考え方は、現代の社会からは大きくずれてしまったものでもありました。

神の名を借りて、過激な発言、行動をしようとする。

私が通っていた教会は伝統宗教系の場所ではありましたが、宗教とメンヘラが、宗教と発達障害者が合体すると、そんな歪みが生じることを知りました。

そして。

方向性こそ違うとはいえ、私が牧師に対して行った、括弧付きの「メンヘラ」そのものの情緒不安定さは、放置しておくとモンスターになりかねないものだと思ったのです。

私は、はっきりいって、神を信じる人ではありませんでした。

「神がいることにする」という割り切った態度でキリスト教をやっている人のつもりでした。

しかし。

もしかしたら、私はゆくゆく、狂信者になってしまうのではないか。

情緒不安定な人が宗教をやっていたら、モンスターになるのが末路なのではないか。

そう思って、教会に行くことをやめました。

 

信じていないことに気がつく


そうして教会に通わなくなってから、自分の神や、聖書や、教会に対する態度について考えてみました。

すると……。

そもそも神を信じていないことに、改めて気がつきました。

神を信じていることにして、本当は信じていないことを心の奥底に閉じ込めていたのです。

神を信じていないのに、教会に通うことはできない。

それどころか、神を信じていないのに、パンとぶどう酒をいただくことなどしてはいけない。

自分が神を信じていない人間であることに悩み、さらに教会から足が離れ、結局戻らないまま今に至るのでした。

 

「信じることにする」という出発点


さて。

以前の記事、「宗教とメンヘラの関係性 信仰一世が見た伝統派キリスト教会について」では、「神を信じることにする」という信仰への態度について書きました。

キリスト教会には3種類の人がいる。

1.社交の場として通っていて、神にも信仰にも興味がない人
2.神を心の底から信じている人
3.神がいることにする人

という内容です。

教会に通っていたとき、私は「3.神がいることにする人」でした。

そして、教会に通わなくなったのは「2.神を心の底から信じている人」になったときに、自分のメンタルや発達障害ゆえに、歪んだ狂信者になることを恐れてのことでした。

しかし。

教会に通わなくなってから少し時間が経ったいま、私は結局、「3.神がいることにする人」にしかなれなかった人間なのではないか、と思っています。

ここからは、そのことについて書いていきたいと思います。

 

「信じることができない」自分


私は、キリスト教会に通っているとき、「神がいることにしている」人間でした。

たとえば(神学的な立場はともかく)礼拝でパンとぶどう酒をいただくときの態度でいえば「なんだかパワーがもらえる!」くらいの立場でした。

ようするに、頭で考えて宗教をやっていたのです。

教会に通っているとき、そのことは一種のコンプレックスでもありました。

たとえばイエス・キリストのことを「イエス様」と呼ぶことひとつとっても、なんだか、キリスト教徒らしい行動を演じているような気持ちが抜けませんでした。

しかし私は漫然と、教会に通い続けていたら、自分はいつの日か、心の底から神様を信じることができて、メンタルも楽になるのでは、くらいに思っていたのです。

しかし、教会を離れた今、そんなことはない、と言い切れます。

私は自閉症スペクトラムです。

自閉症スペクトラムの人間は脳のつくりが違う。

それゆえに、私はおそらく神を信じることはできない。

そう思ったのです。

 

神以外も信じることができない


神を信じることができない。

それなら、他のものを信じることはできるのか?

教会を離れてから、自分自身について気がついたのは「信じることができない人間」ということでした。

人を。
神を。
物事を、信じることができない。

常に疑ってしまい、信じることを本能的に避けようとしてしまう。

たとえば……

私は社会運動というものが苦手でした。

精神障害者という「弱者」になってから、NPOや自助会など、人助けをしようとする団体に関わったことがありました。

しかし、そういう団体に関われば関わるほど、離れたくなってしまったのです。

いまになって理由を考えると、それは社会運動をしている人たちが、なにかを「信じている」からだったとわかりました。

人を救う、助けるという理念そのものは尊いものです。

しかし、確固たる理念を信じていることが怖くなってしまったのです。

同様の例はいくらでも挙げることができます。

例えばインターネット上で既存の経済圏へのオルタナティブを作ろうとする人たち。なぜ、その理念を「信じる」ことができるのがわからず、私はそういった運動を一歩引いて見ていました。

左右問わず、政治運動をしている人たち。

なぜそんなに、イデオロギーを「信じる」ことができるのか、よくわかりませんでした。

私の知人にはオーガニック大好きな自然派の人がいますが、なぜ「趣味」の域を超えて、運動じみたことをするくらい「信じる」のか疑問でした。

他にも……

スポーツ。
好きなチームはありません。

アイドル。
アイドルに興味がありません。

なにかに熱狂的になることに対して、腰が引けてしまうのです。

 

信じている人は幸せそうである


しかし……。

私の知人、友人にいる、例えば社会運動をしている人、自然派の人、新しい働き方を生み出そうとしている人……などなどは、皆、少なくとも生きることが充実していました。

信じる人は救われる、という言葉で表すのはあまりにも陳腐ですが、救われているかはともかくとしても、なにか「信じる」ものがある人は、信じることが生きることのエネルギーになっているようでした(信じる対象の善し悪しは別として)。

宗教。
政治。
社会運動。
ビジネス、お金。
芸術。

信じるものはなんでもよいのです。

なにかを信じることができる人は、少なくとも生きることはできていました。

いっぽうで、信じることができない私は、常にうじうじと精神を病んで、寝込んだりしてばかりです。メンタルを病んでいる人でも、信じるものを持つ人は、私よりはマシなように見えました。

 

信じていないのにキリスト教会に通う人たち


メンタルを病んでいたり、そのほかに人生の障害があったり。

そんな人が、なにかを「信じる」のはわかりやすいと思います。

ところで、私が通っていたキリスト教会には、「神がいることにする」人たち、つまり「信じていないのにキリスト教会に通う」人たちもいました。

私から見て先輩だった、そんな人たちが教会に通い始めた理由はよくわかります。信じられるかは別として、キリスト教ならではの物事の考え方や、宗教哲学めいたものを求めて門を叩いたのでしょう。

でも、どうして途中で辞めることなく、教会に通い続けているのでしょうか。

私が考えた答えは、あまりにも身も蓋もないものでした。

「精神が強い」(病んでいない)からです。

いわゆるメンヘラや発達障害者ではないので、教会に通っていても、とくにモンスターになることもないし、逆に自分が「信じていない人」であることに悩むこともないのです。

うまく折り合いをつけて宗教がやれるのは、精神が強い人なのでした。

 

信じることの四象限


メンヘラをはじめ、精神力が弱い人は「信じること」に救われる。

いっぽう、精神力が強い人は、信じても信じなくても生きていける。

いっぽうで、神にしろ、他の物事にしろ、信じることには才能が必要です。

物事に途中で疑問を抱いて離れたりしない才能。

疑問を抱いたとしても、「神がいることに」し続けられる才能。

私は、信じ続けられる才能がなかったので、教会から離れてしまいました。

しかしながら、ある種のメンヘラや発達障害者は、場合によっては「信じすぎて」しまって、狂信者のモンスターになってしまう危険性を秘めています。

というよりも、心の底からなにかを信じている人は、信じていない人からすれば、程度の多少はあれ狂信者じみているように見えるのは当然です。

しかし……。

狂信者になったメンヘラや発達障害者、その人自身は、きっと救われているのです。

確固たる世界観を持つことができて、はたから見れば幸せであるようにも思えます。

……ということを考えていて、図で表すことができるのではないかと思い至りました。

つまり、こういうことになります。



左上。
メンタルが強くて、信じることができる人。
メンタルが強いので、何ら問題はありません。
また、メンタルが強いので、宗教や、イデオロギーや、何らかの運動を信じたとしても、狂信者になるおそれはないといえるでしょう。

左下。
メンタルが強くて、信じることができない人は……
メンタルが強いので、とくになにかを信じる必要はありません。
信じなくても生きていけます。
「ツァラトゥストラ」をきちんと読んだことがないのですが、ニーチェいうところの「超人」だといえるでしょう。

右上。
メンタルが弱くて、なにかを信じることができる人。
狂信者やモンスターになってしまうおそれがあります。
カルト宗教や、先鋭化した社会運動に取り込まれる可能性もあります。
しかし、信じている当人自身は幸せです。

右下。
問題はここです。
メンタルが弱くて、信じられない人。
メンタルが弱いので生きるのが辛い。
一方で「信じることができない」ので、なにか外部のものにすがって、助けを求めることもできない。
最悪の場合、死んでしまうこともありえます。

私は、自分のことを、右下であると自己規定しています。

 

弱くても、信じることができる人は生きていける


まず、メンタルが強い人は、特段問題はありません。

いっぽう、問題はメンタルが弱い人です。

メンタルが弱かったとしても、信じることができる人は、信じるものに助けられて、なんとか生きていくことができるでしょう。

それでは……。

疑い深くて、冷笑的で、信じることができない人は?

私は、そのようにカテゴライズされる人間が、どうやったら救われることができるのかわかりません。

一番簡単に思い浮かぶのは、精神を鍛えて、マッチョになって、自分を信じて生きること。

でも、それができないからメンヘラなのです。

いっぽうで、なにかを信じることができるようになる方法というのも、私は思いつくことができません。

 

信じる人は社会福祉につながりやすい


メンタルが弱くて、なにかを信じることができるたぐいの人を、私は羨ましく思います。

もし、こんなにも疑い深くなく、冷笑的でもなかったら、もっと幸せに生きていくことができた。きっと、もっと生きやすかっただろう。

それに、私個人の感想と関係ない部分でも、信じることができるメンヘラは、人からの助けにつながりやすい存在です。宗教は、社会運動は、そのほかの「信じる」人たちも、弱者を助けてくれることが多い。

少なくとも、疑い深すぎる人たちよりは、メンタルを病んだときに福祉につながりやすいといえます。もちろん、悪意を持って近づいてくる人間に出会う可能性も高まるのですが。

私は、これまでの人生でスレてしまったのかもしれません。

すれっからしです。

 

発達障害者が神に救われることはできるのか?


少しずれますが、発達障害者が神に救われる、本当の意味で、自然体で宗教を信じることができるのかどうか、ということについて、私は懐疑的です。

自閉症スペクトラム系のある種の発達障害者は、「信じる」ことについて両極端だと思います。

疑ってかかりすぎて、「神がいることにする」ことしかできないか。
はたまた、信じすぎて、狂信者のモンスターになってしまうか。

神様を、宗教を信じすぎている人は、一見救われているように見えたとしても、その実「救われている」といえるかどうかは微妙なところでしょう。

このあたり、うまくニュアンスが伝わるかどうかわかりませんが、歪んだように「信じすぎている」人は自然体ではありません。いわば、初心者のイキリ状態がずっと続いているようなもの。

頭で考えて信じるのでもなく、脳のすべてを自力で洗脳するのでもなく、身体になじませるように、自然体で信じる。

宗教を例にしましたが、他の「信じる」ことについても同じです。

私が教会に通わなくなってしまった理由。

それは、自閉症スペクトラムそのものの発達障害者である自分は、どちらに転んでもろくなことにならないと思ったからなのです。

 

今後、私は教会に戻るのか


最後に。

私自身ですが、教会そのものは今でも嫌いではありません。

しかし、一旦洗礼を受けて、書類上はクリスチャン(キリスト教徒)になった以上、教会に行けば信徒としての扱いを受けてしまいます。

自分が神を信じていない以上、礼拝でパンとぶどう酒をいただくことはしたくありませんし、できません。それこそ神への冒涜です。

教会でお世話になった上の世代の方からは、戻ってきたらよいのに、といわれますが、そういった理由で、行くことはないと思います。

しかしいまでも、ふとした瞬間に、自分の道徳観念にキリスト教的なものを感じることがあるのです。悪いことを思いついたときに、神というものを意識してしまう。

「お天道様が見ている」と何が違うのかといわれればそれまでですが、もしかすると、世界中にいる信仰者ぶっている人たちも、内実はそれと大差ないのかもしれません。



【執筆者】
広尾蘭 さん

【プロフィール】
自閉症スペクトラムの診断を受けています。 文章を書いたり、何かを作ることが好きです。 江戸時代に生まれたら村一番の鍛冶屋になっていたと思います。


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4件のコメント

ローズティー 返信

興味深く拝読しました。
私は受洗30年以上のクリスチャンで、大学では神学を専攻しました。
牧師かつ神学校教授の男から10年近くにわたる性暴力を受け、複雑性PTSDになりました(体験談を投稿しています)。
病気になって20年、体力がなくて教会へは行けませんが、信仰は多分あります。
でも、不安定な信仰だろうなと思います。
牧師に犯されればそうなります。
しかしどうしても教会を捨てることができなかった……のは、二世だからかもしれません。
ちなみに母は発達障害で、かなり熱心なクリスチャンです。
ごめんなさい、自分語りしてしまいました。
とても真面目なかたなのだなと思って読みました。
友人にアスペルガーで信仰を捨てた人がいます。
その人のことを思い出しながら、じっと読んでいました。
考えさせられますねとか、難しい問題ですねとか、そんなことは言いません。
自分自身の納得した生き方ができることが第一です。
信仰や教会のことで苦しみたくないなと思いますが、何かしら出てくるものですよね。
貴重な体験談をありがとうございます。

ヤマー 返信

神様に限ったことではないのですが、私は疑うことのない事実判断ならば“信じる”という行為は必要ない事だと思っています。“信じる”という行為は自身の中にある種の疑いの様なものがあるからこそ初めて成り立つのではないでしょうか。心の弱い私も色々なものを疑って生きています。最近は教会や信仰などにも興味があったのでこの体験談はとても参考になるものでした。

エリック 返信

参考にさせていただきました。
わたしはたくさんのものを、なにより人生そのものを疑いながら、生きています。
宗教に入るどうか悩んだりしていましたが、わたしのような者が信仰を続けられるか自信がなく、結局入らず仕舞いです。
神を信仰するということの価値は、他の何かによって担保されている訳ではなく、結局は自分の中の、絶対的な部分にあるのだと、考えています。
これは宗教に限った話ではなく、人の持つ夢や理想も、人生も、同様の側面を持っているのだと、わたしは考えています。
疑うことは人間の生存上重要な役割をもちますが、疑い過ぎても事はうまくいかないようです。
腰の重いわたしにとって、とても貴重な体験談でした。ありがとうございました。

ぽんすけ 返信

熱心なキリスト教の家族に育ちましたが、私もキリスト教の怒ったり優しかったりり契約を結んだりする神がどうも不自然で信じらなくて、心でどう収拾つけたらいいのかと長い間考えていてとても共感しました。

私のいまのところの信仰は、私たちも含む自然界、つまり宇宙も含めた見えるもの見えないもに在るもの全てが一つの神ではないかと、そしてその自然界の中の物理的な法則等が神のおきてではないかという思想です。
そもそも、私たちが存在してることと、存在する環境があるのがヘンテコなのです。なので、そのヘンテコで存在全体を一括して神として良いのではないでしょうか。もちろん、この神は自然界そのものなので救ってはくれません。

一時期私も神はいないとい思っている時もありました。今、上に書いたような神を信じるようになっては私は神がいないという信仰を持ってたんだなあと思います。信じられないのも信じられないという信仰です。人はいつも何かを信じているのではないでしょうか。資本主義もお金をみんなで信じることによってまわっています。

ニーチェは人が想像した神の死を宣言し、彼の言う超人はこのヘンテコな宇宙で人間の想像で考え出した神や迷信に惑わされず、ただの永遠に循環(永遠回帰)する宇宙の摂理を受け入れ堂々と生きている人ともいえもしれません。

とはいえ、やっぱりキリスト教の神やその他の理解しがたいイデオロギーなどを心から信じれるのってすごいですよね。本当にそういう方々を見ていると信仰は力だと思います。そして才能だといわれるのもわかります。

私も躁鬱なので、苦しみながらいっぱいいっぱい考えてしまいます、そしてキリスト教のこともあってすごく共感しました。ありがとうございます。

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