精神科を受診すべきだった父 父を救えなかった娘の私
2回目の投稿になります、茶川ひつです。
前回の記事は沢山の方が読んでくださったようで、感謝と驚きがいっぱいです。
【関連記事】
・自分の発達障害の遺伝子をこの世に残そうと思えない
掲載してくださったメンヘラjpさん、及びに目を通してくださった皆さん、ありがとうごさいます。
今回は私の父親の話をさせてください。
この話は少し前に話題になった「男性メンヘラ」の話とも関連性があるかもしれません。
私の父は毒親といえば毒親ですが、よくある暴力を振るったりとか、性的暴行をしたりなんてことは一切ありませんでした。
私が泣いていれば絶対に慰めてくれたし、困っていれば絶対助けてくれるような人でした。
優しいお父さんでした。
けれど母にとってはそうではなかったようです。
私の母は医療関係の資格専門職に従事している人で、収入は一般的な男性よりもずっと上です。
一方父はいくつも職を転々としていました。
ですから私の家で家計を支えているのは母であり、家庭内での絶対的な権力者は母でした。
それは今でも変わりません。
負い目もあったのか、家事は殆ど父が行なっていました。
それでもやはり一般的には「夫が妻を養う」のが当たり前で、そのことについて母はほぼ毎日のように父を責めていました。
父は母に言い返すことは殆どありませんでした。
けれど時々母がいなくなってから、私の部屋に来て、私の前で泣いて、私に向かって心情を吐露することがありました。
あの時、父はきっと私に助けを求めていたのだと思います。話を聞くことしかできなかったことを今でも後悔しています。
私が高校生になってから父はギャンブルにのめり込むようになり、その元手となるお金を私に無心するようになりました。
父のギャンブル依存症の原因が母との関係に疲れ切った末の現実逃避だということくらい、すぐに察しがつきました。
その頃、父は本当に追い詰められていたのが側から見ていてもよくわかったので、私は「私が父の望みを叶えなければ、父は自殺してしまう」と思い込んおり、思って言われるがままにお金を渡していました。
正直、間違っているという自覚はありました。けれどこの行為は私の承認欲求を満たす為のものでもありました。
お金を渡して、父が私を褒めてくれるたびに私は生きていてもいいんだと思うことができました。
そうしなれば、母から人格否定のような言葉を毎日聞いていた当時の私は生きていくことができませんでした。
だから誰にも相談しませんでした。
人に相談したら私の命綱である父からの褒め言葉を取り上げられてしまうと思っていました。
それが間違いでした。
あのとき私が本当にやるべきだったのは父に無理矢理にでも精神科を受診させることでした。
そのことを理解して受け入れられたのは成人してからです。
父は最初から「父親」になれる人ではなかったのだと思います。
それでも彼なりに凄く頑張って頑張って父親であろうとはしてくれました。
結果は何も伴わなかったとしても。
それでも父は一度も結婚したことも父親になったことも後悔しているとは言いませんでした。
前回の記事に書いたように私の高校卒業式の日、母が父を家から追い出すような形で私の両親は離婚しました。
それ以来、父とは会っていませんし、連絡もとっていません。
私は父を救いたかったけれど、娘であるから他の誰よりも父に対して愛情は抱いていた自信はあるけれど、それでもだめだった、それだけではだめだった、愛情なんてなんの意味も成さなかった、救いたいと願う気持ちだけでは父を救えなかった、悲しいです。
弱い男性メンヘラが話題になったとき、父のことを思い出したのでこの話をさせていただきました。
父と会わなくなってだいぶ経ったけれど、それでも時々思い出して辛くなります。
読んでくださった皆さん、拙い文章に付き合ってくれてありがとうございました。
【執筆者】
茶川ひつ さん
【プロフィール】
手帳持ちメンヘラ
生き方が全然わかりません
ツイッター : @tyaga09161
なんでもありの闇鍋アカウント
稀に絵を描きます
よろしければどうぞ
前回の記事は沢山の方が読んでくださったようで、感謝と驚きがいっぱいです。
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掲載してくださったメンヘラjpさん、及びに目を通してくださった皆さん、ありがとうごさいます。
今回は私の父親の話をさせてください。
この話は少し前に話題になった「男性メンヘラ」の話とも関連性があるかもしれません。
私の父は毒親といえば毒親ですが、よくある暴力を振るったりとか、性的暴行をしたりなんてことは一切ありませんでした。
私が泣いていれば絶対に慰めてくれたし、困っていれば絶対助けてくれるような人でした。
優しいお父さんでした。
けれど母にとってはそうではなかったようです。
私の母は医療関係の資格専門職に従事している人で、収入は一般的な男性よりもずっと上です。
一方父はいくつも職を転々としていました。
ですから私の家で家計を支えているのは母であり、家庭内での絶対的な権力者は母でした。
それは今でも変わりません。
負い目もあったのか、家事は殆ど父が行なっていました。
それでもやはり一般的には「夫が妻を養う」のが当たり前で、そのことについて母はほぼ毎日のように父を責めていました。
父は母に言い返すことは殆どありませんでした。
けれど時々母がいなくなってから、私の部屋に来て、私の前で泣いて、私に向かって心情を吐露することがありました。
あの時、父はきっと私に助けを求めていたのだと思います。話を聞くことしかできなかったことを今でも後悔しています。
私が高校生になってから父はギャンブルにのめり込むようになり、その元手となるお金を私に無心するようになりました。
父のギャンブル依存症の原因が母との関係に疲れ切った末の現実逃避だということくらい、すぐに察しがつきました。
その頃、父は本当に追い詰められていたのが側から見ていてもよくわかったので、私は「私が父の望みを叶えなければ、父は自殺してしまう」と思い込んおり、思って言われるがままにお金を渡していました。
正直、間違っているという自覚はありました。けれどこの行為は私の承認欲求を満たす為のものでもありました。
お金を渡して、父が私を褒めてくれるたびに私は生きていてもいいんだと思うことができました。
そうしなれば、母から人格否定のような言葉を毎日聞いていた当時の私は生きていくことができませんでした。
だから誰にも相談しませんでした。
人に相談したら私の命綱である父からの褒め言葉を取り上げられてしまうと思っていました。
それが間違いでした。
あのとき私が本当にやるべきだったのは父に無理矢理にでも精神科を受診させることでした。
そのことを理解して受け入れられたのは成人してからです。
父は最初から「父親」になれる人ではなかったのだと思います。
それでも彼なりに凄く頑張って頑張って父親であろうとはしてくれました。
結果は何も伴わなかったとしても。
それでも父は一度も結婚したことも父親になったことも後悔しているとは言いませんでした。
前回の記事に書いたように私の高校卒業式の日、母が父を家から追い出すような形で私の両親は離婚しました。
それ以来、父とは会っていませんし、連絡もとっていません。
私は父を救いたかったけれど、娘であるから他の誰よりも父に対して愛情は抱いていた自信はあるけれど、それでもだめだった、それだけではだめだった、愛情なんてなんの意味も成さなかった、救いたいと願う気持ちだけでは父を救えなかった、悲しいです。
弱い男性メンヘラが話題になったとき、父のことを思い出したのでこの話をさせていただきました。
父と会わなくなってだいぶ経ったけれど、それでも時々思い出して辛くなります。
読んでくださった皆さん、拙い文章に付き合ってくれてありがとうございました。
【執筆者】
茶川ひつ さん
【プロフィール】
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生き方が全然わかりません
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