完璧主義がゆえに”純粋な楽しさ”を得られない

体験談 マコト

はじめまして。大学4年生のマコトと申します。

早速ですが、もしも以下のような環境に置かれている人がいたらどんな感情を抱きますか。

・安定した大きな会社に内定を貰った人
・趣味の世界でその道の最先端にいる人と仲良くなれた人
・軽口を言い合える仲の人間がいる人
・権威ある教授の下で学ぶ機会がある人

きっと、そんな人を目の当たりにすれば、「恵まれている」と思われるかもしれません。

そして、その環境下に居ながら心が荒んでいく私はどれだけの甘えと傲慢で構成されているのか、と憤りさえも覚えると思います。

しかし、これらの全てを満たした状態であったとしても、“楽しめない”ということが全てを台無しにしてしまいます。

今回はそのお話をさせていただきます。

その過程においてはどうしても自分語りが中心となってしまいます。ご了承ください。

 

私は今まで嫌なことばかり頑張ってきたような気がします。

やりたくもない勉強や人に面倒ごとを押し付けられても笑顔でいたり、大人へのごますりだったり。

それは全て将来というあやふやなものへの恐れから頑張らなければいけないのだと思い込んでいたような気がします。

その為には、余計なものをしている時間はありませんでした。

同級生が嗜んでいるゲームや文学、はたまた友情だったり恋愛だったり。

私は不器用であったため、それらを全て放棄しなければ何も成し遂げられないと考えていました。

ずっと、「嫌だな」と思うことばかりを継続することが“努力”という美しいものだと思い込んでいました。

そうしていつしかプライドだけは肥大化し、自身は完璧でなければいけないと思い込んでいました。

 

しかし、大学に入ってからはどうでしょう。

周囲は好きなことを好きなだけしながら、器用に“やりたくないこと”をなるべく退け、“やりたいこと”へ専念していました。

私はその変化に一種の危機感を覚えていました。

そこで私は必死に何がしたいのかを思い浮かべようとしていましたが、私の頭に浮かぶものは何一つありませんでした。

ただ思いついたのは、就職活動で有利になると思い込んでいた資格試験への勉強をしなければいけない、ということでした。

その過程においては、私は私自身を支配して他人に興味を持ってもらえるように振る舞いました。

大きな声で笑い、冗談を言い、相手の好きなことを理解しようとしました。

なぜならば、私は完璧でなければいけないからです。

他人から好まれるような人間こそ完璧であると思ったからこそ、人間関係で“努力”を続けてきたのです。

 

しかし、そんな脆い人間関係はすぐに破綻します。

私は他者に好まれることと利用されることを履き違えていた節があり、すぐに疲労しました。

それでも私は他者に好まれようとする行動をやめようとはしなかったため、他者の感情を知ろうと文学を学びました。

その過程において知り合ったのが創作のプロフェッショナルの方でした。

私はその方に懇意にしてもらった甲斐あって、いろんな場面でいろんな話ができました。

そうして初めて自分に“やらなきゃ”から“やりたい”が生まれました。

そうして私は拙い技術で小説を書き始めたのです。

 

……もしもここで終わっていたならばハッピーエンドでしたが、残念ながらそうはいきませんでした。

もう少しだけ自分語りが続きます。

ここで私は初めて“楽しむ”ことを知りました。

いろんな知識を知ることは私にとって幸福でしたが、その環境もすぐに消え失せました。

初めのうちは好き勝手にやっていた小説も、勉強すればするほど自分がどれだけ満たない存在であるかを知り、完璧でなければいけない私を傷つけていきました。

そうしてそのうち、“努力”を始めました。

片っ端から文を読み、文の正しさは何か、表現していいものと悪いもの、そして読まれない文には価値がないことを学びました。

とにかく努力すれば一定数の評価を貰えると思い込んでいた私でしたが、芸術の世界はそんなに甘くはありませんでした。

そのうち私は自分自身に能力がないことを知りました。

それはプロフェッショナルが生み出すものを傍から見ていれば一目瞭然でした。

そうしてそのうち、私はそのプロフェッショナルの近くに居るだけの価値が自分の中で存在しないことを悟りました。

 

私の存在が他者の足を引っ張るだけだという事実は、今までの自信を大きく損なわせました。

だからこそ自分の無価値感を拭いたくてさらに必死に勉強しました。

そして就職活動も必死でした。

しかし、結局自分に価値があるとは思えませんでした。

どんなに勉強しても失敗ばかりで教授に呆れられました。

そして、たとえ大きな企業に就職が確定したとしても、同期入社の子たちは自分の“好き”を見出して楽しそうな日常を送っていました。

自分は全てを犠牲にしたのに、この差は何なのだろうと惨めになりました。

そこで残された私は何だったのでしょう。

 

努力したつもりでも、ただその場で藻掻くばかりで何も残されてはいなかったのです。

周囲で好き勝手に好きなことを存分に楽しんでいた子たちへ嫉妬し、自身も楽しみたくていろんなことを試しても、今更楽しみ方一つも知らないのです。

だからこそ、私は酷く絶望しているのです。

これからも同じようにやりたくないことばかり続け、だからと言って楽しむこともできない。

日々ただやらなければいけないことに追われながら週末に半日以上も眠り、目が覚めてからただ何もせずに天井を見つめていると、ふと希死観念が生まれてくるのです。

今すぐ首を吊れば、この惨めな感情から逃げられると、そう思うのです。

 

随分と長い自分語りになってしまいましたが、結論として、私がこのような感情を抱くきっかけになったことは、“純粋な楽しさ”を忘れてしまったことにあるのだと思います。

本来は自分さえ楽しめたらいいものを、そこに正しさや価値を置こうとするからこそ、私のように今の自分自身が不完全であると思い、恐ろしいほどに無価値感が生じるのだと思います。

だからこそ、もし今、純粋に楽しめる何かを持っているとしたならば、それだけは大切にしてください。

どんなに小さなことでもいいです。

いつかそれが貴方を救う可能性があります。

もしも、私のように純粋に何かを楽しめないで苦しんでいるとするならば、小さい試みから始めませんか。

もしかしたらいくつかの試みの中に物事を楽しめるヒントがあるかもしれないので。

私がこの文章を書いているのも試みの一環です。

正直、読んだ人が「時間の無駄だった」と怒るような文章かもしれませんが、好き勝手に文章を書くのは案外嫌いではありませんでした。

試みには勇気がいりますが、この惨めさから抜け出すことができるんじゃないかと考えればほんの少し頑張れる気がしてきませんか。

私は私と同じ苦しみを持つすべての人が救われることを願っています。

 



【執筆者】
マコト さん

【プロフィール】
大学4年生の男 能はないがプライドだけはエベレスト級のせいで毎日希死観念に追われている人


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4件のコメント

カナ 返信

私も似た感じのことをずっと感じています。恵まれた環境があるのに苦しくなる。好きなことをやっても楽しめなくなる。何かをやる程に自分の無力さを実感して絶望的な気持ちになる…等です。
結果とか成果とか進捗とか、幼少期はまだそうしたものが眼中になかったんですが、その頃は色々なことがどこまでも楽しかったなと思い出しました。
といっても私はマコトさん程に努力できない人間なので、同じタイプです!などとはおこがましくて言えないのですが^^;
でも、共感できるコラムを読めてなんだかホッとしました。ありがとうございます。

コラムを読んだ感想としては、マコトさんは素敵な人間性をお持ちだなと私は思いました。色々なことに敏感で察知できて、且つそれに応えられるようにしなくてはと考えられる方のように見受けられました。
ただ、マコトさんが感じているような苦しみを生じやすい危険性も孕んでいるんですね。

マコトさんを縛り付けているものが無くなって苦しさから解放されて、そしていわゆる「無駄なこと」や「生産性のないこと」(この表現が最適か微妙ですが)をもっと楽しめるようになれるといいなと感じます。
ただただ同情のような言葉でしか出なくてすみませんが、本当に辛くてたまらないんじゃないかと思うんです。

有効な助言や励まし等ができず恐縮です。ですがこちらのコラムで自分の考えを見つめ直すきっかけができ、お礼を申し上げたく思いコメントさせて頂きました。
無力ながら、マコトさんの幸せを祈っております。
長文失礼しました。

マコト 返信

お返事が随分と遅れてしまい申し訳ありませんでした。カナさんの頂いたコメントは私の励みになり、同時に同じ感情を持つ人間が確かに存在することを理解し、安心することができました。私の周囲には同じような創作をする人間が多く存在しますが、その大半は楽しさを謳歌し、私のように苦しみながら創作することを否定的に見ている人が大半でした。
「苦しいんならやめてしまえ」と何度言われたことかを数えるとうんざりすると同時に、創作から離れられない自分にも嫌悪し続けていました。そのたびに今度は言葉を封印して、創作が楽しいものと言い聞かせながら文章を構築する日々は耐えがたいものでした。同時にこの重圧に耐えられない人間は創作者を名乗ってはいけないと自分に言い聞かせていました。
でも、私が書いたものが、苦しんで藻掻いて生み出したものが、数分であれ数秒であれ誰かの感情に触れたとするならば、私が行ってきたすべての苦しみは無駄ではなかったと思えてきます。だからこそ、ここにこうして言葉を示してもらえたことを心より感謝します。
ありがとうございました。

まめ 返信

ここ、メンヘラjpには、よく、自分の価値、みたいなものに悩まれている方がいらっしゃるように思います。

『本来は自分さえ楽しめたらいいものを、そこに正しさや価値を置こうとするからこそ、私のように今の自分自身が不完全であると思い、恐ろしいほどに無価値感が生じるのだと思います。


私がよく印象に抱くのに、皆さん「自己採点」しながら生きてるんだなぁ…というのがあります。
そして、その採点の基準がとっても高い。

『私のように今の自分自身が不完全であると思い』

いやいや。
人間ってもともとが不完全だし。
ということをもっと学校で教えていって欲しいよなって思ったりします。

それでもって。
その、不完全だからこそ、物事出来るようになるためには、時間や試行錯誤という過程があって、だけども、その過程のうちにはなんとなくちょっとずつ気づきや成果や“諦め(これ大事)”、等々がちりばめられていて。
そういった酸いも甘いもを感じて味わって生きていくのが人生なんであって。

で、趣味とかいうのは、その縮図なんですよね。

気づきや成果や“諦め”、、、そう、全ての人間は不完全な存在であるんですから、必ず“諦め”なければならない部分は絶っっっ…対に!存在するんですよ。

そもそも。
最高峰にいるプロであっても、自分に対して“諦め”ている部分妥協している部分は必ずあるんですよ。
彼らがそれらにつけてる名前は「今後の課題」「生涯の課題」「自分の持ち味」とかいうんですけどね。


趣味を、人生を、楽しめない人の特徴に、「下手な自分」「過程の自分」を「興味深く面白くユーモアをもって観察して共に味わって歩む」っていうのができない、という点があるそうです。
上のプロの捉え方みたいなのがないんですね。
自分を採点対象にしちゃうだけで済ませてしまう。

これだけ、時間や資源や手間隙かけて育ててきた人間っていう「素材」を◯×つけるだけでポイ!じゃ勿体ないんじゃないでしょうかね?

受け売りの羅列ですが。
これまでの人生の考察を書いてみました。

マコト 返信

お返事が随分と遅れてしまい申し訳ありませんでした。
諦めの重要性、私もこの部分を深く同意しています。人間、誰でも不完全な存在であることを許せなくなった(自分自身の不完全を許せなくなった)経緯には、過去に純粋な創作を容易く踏みにじられた経験から生じております。きっと、その言葉たちは大半が意味などなく、誰の記憶からも消えるはずだったものでしたが、私だけがその言葉たちに縛られ続けています。創作が踏みにじられたことは、自分自身の努力不足が全てである、と結論付け、諦めることをしなかったことでさらに傷を広げた結果が今の私なのです。
それこそ、諦めは絶対の悪ではなく、一種の自分自身への理解であると知ったのはつい最近でした。自分の力量・目標が予想を下回った際に、その目標を一度諦める(=妥協する)ことは課題解決の糸口であり、凝り固まった妄信的な思考を打ち砕く手段であることにたった今気が付きました。……まさにこの文章を打ち込んでいる、この瞬間にです。
その事実を理解できたことが私にとって進歩です。まめさんのおかげで気が付くことができました。
ありがとうございます。

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