それでも私は死にたい ─希死念慮の正体についての考察─

体験談 死にたい 希死念慮 過負荷不可

希死念慮というものについて、息苦しさに眠れぬ夜の暇を飽かせて考察を試みたので、その結果得られた個人的所見をメモがてら、眠れぬ同志諸兄と共有したく、本日初めてこのサイトに以下の駄文を投稿する次第である。

希死念慮はあるのに、実際に自殺という段階に踏み込む事が出来ない、と嘆く人は多い。それは何故か?今夜の思惟はそんな疑問から始まった。結論らしき何某かを探り当てるのに、思いの外時間はかからなかった。

私が思うに、希死念慮というものは逃避願望の成れの果て、終着点であり、それ以上でもそれ以下でもない感情である。

 

学校や職場、家庭といった人間関係や、あるいは自分自身の人生と向き合う事から逃げたい。そんな切実な願いから全てが始まる。自身の内なる逃避願望に気付いた次に、人は考える。

では、どのような手段で?

しかし、これらの願望に対して、具体的な策が浮かぶことは往々にして無いだろう。

そのような策が思いつくのであれば、そもそも希死念慮など抱かないとも言えるが。

それが主観的で偏った思考回路によるものであれど、当の本人が具体的な打開策を思いつかないのでは仕方がない。

そして彼らは思う、ああ、この苦しみから逃れる為には、もう死ぬしかないではないか。

 

意識的であれ無意識的であれ、彼らの思考が導き出すこの様な帰結こそが、彼らが希死念慮を自覚する端緒であると私は考える。

しかし、ここで一つ現実に起こりえない仮定を一つ導入しよう。私が全知全能の神となり、彼らにこう提示するのである。

「苦しまずに死ねる毒薬か、もしくは、あなたの為だけの、苦しみのなく、美しい楽園のような世界か、どちらか一つをあなたに与えよう」

恐らく彼らは後者を選択するだろう。

彼らが求めているのは畢竟、安寧の地、それ以外の何者でも無いのではないか。彼らは死の中にしか、 心休まる場所を見いだせないだけなのではないか。

しかし哀しきかな、我々は人間であり、ヒト科ヒト属ヒト、つまり動物なのである。

昨今のヒトはどうも思い上がっている節があり、性的欲求や帰属欲求などの欲求を覚える事に対し自罰的な傾向にあるが、いくら理想論を説いた所で我々は動物だ。

等しく本能的な欲求という足枷を嵌められた存在でしかなく、いくら地球上の他の生物を好きに扱えるからと言っても、自身が動物という枠組みから抜け出すなどという事は不可能なのである。

つまり、我々が希死念慮を抱いたところで、縄に頭を預け椅子を蹴り飛ばす事も、白線の内側から、ビルの屋上から、一歩踏み出す事能わずとも、それは全く仕方の無い事なのである。だって、にんげんだもの。

殺してくれなんて言ってしまうのも、仕方がないよね。自分を殺してしまうのは怖いけど、他人の手で死ぬのはまだ少し楽だと思ってしまう。

自分で自分の命を断つ恐怖と、この先の人生を生き続ける絶望を天秤にかけ続けて、でもそんな天秤を持ち出すだけの理性があるうちは、我々の目は正しく働く。

どんな風に地べたを這いずって生きる事になろうとも、死ぬ事より怖いものなんて基本世の中に存在しない

斯様な生存欲求という本能から逃れる為には、脳味噌丸ごと絶望に麻痺させて、蕩けさせてしまう他はない。

しかし、腹が減る、喉が渇く、眠くなる、そんな生理現象と同じくらい必然の「死への恐怖」すら感じなくなるほど蕩けた脳みそでは、誰かに悩みを打ち明けるといった双方向的なコミュニケーションを取る余裕は失われてしまう。

出来たところで、先立つ不幸をナンタラといった置き手紙の様な、一方通行の言葉を遺すくらいで精一杯だろう。

従って、自死を選ぶ人間はなんの前触れもなく、誰に弱音を吐くでもなく唐突に死に、辛い死にたいと口に出して誰かに伝える余裕のある人間は生き残る、という事になるのである。

 

そして、絶望という、死に至る病に抗体を持った清廉で正常な人間は、生き残った私達に向かってこう言うのだ。

「お前ら、死にたいとか言ってるけど死ぬ気ないんだろ?」

それでも私は死にたい。自分として、人間としての生を死にたいのだ。

私の場合は、人間をやめて猫になりたい。田舎で一人暮らしするおばあさんに飼われたい。毎日寄り添って日向ぼっこをして、暖かな膝の上で丸くなって、たまに甘えてお菓子をねだってみたい。そして彼女より先に天寿を迎えたい。

あるいは、もういっそのこと、自分以外の人間がみんな猫になってしまえばいい。嫌いな奴も、好きな人も、猫になったらみんな可愛くて素敵だろう、きっと。

本当は誰だって、死なずに済むなら死にたくないんだ。

でも、死ぬくらいしか方法が見つからない位困っていて、その状況を端的に表すと「死にたい」になる、それだけなんだ。

だから「死にたい」という私達が死ななくても、全然悪い事じゃない。嘘なんかついてないから。

みんな死んでしまえ、なんて傲慢な要求が通らないことがわかってるから、控えめに自分の死を願ってみる、そんな奥ゆかしさの顕れなんです。

だからどうか、「どうせ死なない癖に」とか、「生きてたらいい事あるよ」なんて事は言わないで欲しい。

そして、私達の誰もが、そんな言葉に惑わされずに済めばいいと思う。

 

死なないかどうかも、生きてていい事あるかも、知りようのない未来についての結果論でしかないのだから。どちらが正しいか分からないのだから、自分が信じる道を歩むしかない。

だから私は今日も、「私以外の人類みんな猫になってしまえばいいよ」という意味で「死にたい」とぼやく。

別に、誰にも絶望からの救済なんて求めてはいない。自分で自分を救えない人の元には、差し伸べられた手すら届かない事を、今の私は知っている。

そんな自分はあの時より少し大人になったなと思って、いつか死にたくなっている時の自分を思い返して「あの時は若かった」なんて苦笑いできる様になりたい、なんて思いながら、死にたい毎日を生きるのだ。多分。



【執筆者】
過負荷不可 さん

【プロフィール】
自己分析によって鬱を克服するべく、日々迷走もとい瞑想(ぼーっとしているだけ)をしています。私の迷走っぷりに興味を抱かれた方が居られましたら、下記のTwitter垢までお越しの上DMを送ってくだされば鍵を開けます。

Twitter : @no__overload


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1件のコメント

いのち 返信

初めまして、かふかさん。かふかというひびきが気に入ったので、ここではそう呼ばせてください。

希死念慮は、ぐぐっていないのでわたしはよく知りません。でもわかる範囲で、しぬことは外側のことで、しにたいのは、内側のことだと思います。

わたしは内側のことと外側のことが、違っているのが時々たまらないようになるので、どうしてもいやなことが目の前にあると、あああああ、それだめ、とか、うーんしにたい(にっこり)と、その場でいうことがあります。気づいたら一人だったりもまあありますけど、思ったんだからしょうがないと思います。

かふかで思い出しました。むかし図書館で、図書館ではいったい何を読むべきか考え、孤独 と打ち込んだらキルケゴールの しにいたるやまい というのが出てきて、そっとじしたことがあります。

内側のしにたいのは、苦痛の記憶が大きいと思って、それからはじぶんの苦痛がわかるようにすること、手当をするようにしています。なので、時々ばたばたしますけど、けっこうばれないし、そのまま言葉にしたらなんとなくわかってくれる人もいます。うーんしにたいだと、案外伝わらない。わからないふりをしているんじゃないかともうがったりしますが、とりあえず手当をいそぎます。

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