自殺したメンヘラの妻をテーマに作品を創る写真家、古屋誠一について

コラム 広尾蘭

日本人の写真家に、古屋誠一(ふるや せいいち、1950〜)という人がいる。

自殺した妻をテーマとした作品を制作する写真家である。

静岡県、現在の西伊豆町、宇久須生まれ。冷戦下のオーストリアに渡り、現地で出会った女性、クリスティーネと結婚。7年8ヶ月の結婚生活のすえ、精神のバランスを崩したクリスティーネは、アパートの階段から身を投げて自殺。

その後、生前の妻を被写体とした写真をもとに、作品を編み上げている。

自殺した人物を作品にする。

しかも、そのなかには、飛び降りた直後の遺体のカットさえ含まれている。

また、被写体となったクリスティーネをよく見ると、リストカット、そして首にも大きな傷跡が残っている。

これまでも、写真や美術の評論家により、古屋誠一について多くの批評がなされてきている。

しかし、今回、古屋誠一の旧作写真集を見返し、また、小林紀晴による伝記 『メモワール 写真家・古屋誠一との二○年』を今更ながら読む機会があり、古屋誠一の作品は、実際に精神を病んでいるたぐいの人にしか、本当には理解できないのではないかと考えた。

そこで、このメンヘラ.jpというサイトに、古屋誠一についての文章を投稿しようと考えた次第である。

古屋誠一という写真家の制作物は、メンヘラ、メンタル、精神病、そういったものを扱ったものの代表になることができる可能性のある作品だと考える。

もしわずかでも、古屋誠一の作品に興味を持つ方が増えれば幸いである。

 

古屋誠一という人のあらまし


上にも書いたとおり、日本人の写真家、古屋誠一は、1950年に静岡県賀茂村、現在の西伊豆町の宇久須(うぐす)に生まれた。

高校は静岡の沼津で、その後は東京にて浪人という名目でモラトリアムの時間を過ごしたらしい。

東京写真短期大学(現在の東京工芸大学)に入学した理由も、単純に、当時の下宿から近かったからだという。

短大を出たのち、1973年に渡欧。現地で芸術家的な活動を行い、そして1976年、オーストリアのグラーツという町で、現地の女性、クリスティーネと出会い結婚。

一児に恵まれるが、クリスティーネは精神のバランスを崩し、統合失調感情障害と診断。最終的に、1985年の自殺に至る。

古屋はその後、亡き妻クリスティーネを撮影した写真を編集し、何冊も作品を生み出す……。

というような人物である。

この簡潔な人物概要は、おそらく古屋誠一という写真家を紹介するうえで間違ってはいないし、だいたいの展覧会や作品集の略歴も、こんなものなのではないかと思う。

しかし、こうした略歴にはすっぽり抜け落ちている概念がある。

それが、「精神を病む」とはどういうことか、ということである。

「古屋誠一は、精神を病んで自殺した妻をテーマに作品を制作する写真家である」

なるほど、わかりやすい。

でも、その作品を鑑賞する人々は、精神を病むということについて、どういうふうに認識しているのだろうか?

おそらくは、非常にざっくりとした、なんとなく大変そうだ、というくらいのものなのではないか。

ぶっちゃけた話をしてしまうと、古屋誠一の妻、クリスティーネはあまりにも美しすぎる。

なので、彼女が精神を病んでいたということも、その見た目と同じくらいに、美しい出来事だったという勘違いをしがちなのである。

 

古屋誠一を知ったきっかけ


わたしが古屋誠一を知ったのは、確か2008年だったと思う。

一応は大学で美術史学を専攻していたわたしは、既にメンタルの調子を相当に崩してしまっていたので、昼間のゼミなどに出ることができず、その代わりに、同じ大学の夜間学部の授業でモグリをして、知識欲を満たしていた。

モグリをしていた授業のひとつが、写真史の授業であり、そこにゲストとして招かれたのが、古屋誠一だった。

それまで古屋誠一という名前は知らず、もちろん作品も見たことはなかった。

語られる作品の内容、上映されるスライドの内容は、もちろん、クリスティーネを扱った作品についてである。

しかし、正直なところ、その印象はまったくもって残っていない。

覚えているのは、自分が的を外した質問をしたことだった。

メンタル自体は病んでいたが、クリスティーネが自殺したということの意味、そして、腕や首の傷跡の意味にさえも思い至ることができなかった。

それは、単純にわたしがまだ自我を持っておらず、そして恋愛経験さえほとんどなかったからである。

その意味がやっとわかりはじめたのは、2017年になり、わたしが、別れた恋人を自殺で亡くしてからである。

亡くなった元恋人は、もちろんリストカットはしていたし、心も身体もボロボロだった。

古屋誠一のように自殺した遺体を写真に収めていないし、荒木経惟(アラーキー)のように棺の中の写真を撮ったりもしていない。

だが、自殺しなければならないほどの状態に精神を病むということの意味は、ある程度わかった、気がしている。

そして、同世代の人間に比べて遅くはあるが、ある程度「脳が発達して」、物事の分別がついてきたわたしは、いまになってやっと、古屋誠一の作品について語る言葉を得ることができたと思うのだ。

 

メンヘラとしてのクリスティーネ


古屋誠一の妻、クリスティーネは、美貌の人である。

だからこそ、どうしても、写真集や写真展では、その生と死が美しいもののように見えてしまう。

……ということは、冒頭に挙げた小林紀晴の著書のなかでも、写真評論家の飯沢耕太郎によって「クリスティーネの圧倒的な美しさですよ。これは、ぼくらを動かす、すごい力を持っている。彼女がもし日本人だったら、あるいは、いってみれば、もしブスだったら……(後略)」と、身も蓋もない形で語られている(小林p203)。

しかし、精神的に病んだ人と関わるというのは、見た目の問題ではないのだ。わたしが交際したことのある複数人の女性は、皆それぞれに、多かれ少なかれ精神に病みを抱えていた。これは、後述するがわたしがそういう人に惹かれるからである。

そのなかには、とても美しい人、わたし好みの容姿の人もいた。だが結果としては、そうであっても、一緒にいることはできなかった。

すなわち、問題はメンタルである。

その点からすると、クリスティーネは、はっきりいってテンプレートのメンヘラそのものであった。

わたしははじめ、クリスティーネが精神に変調をきたしはじめたのは、古屋との結婚のあとのことだと思いこんでいた。

しかし、小林紀晴の著書には以下のようにある。

「その傷は古屋と出会う直前に、付き合っていた男性の両親から結婚することを強く反対され、別れた日に自殺を試みた痕だった」(小林、p38-39)

なるほど。メンヘラと関わり慣れているひとにとっては、このエピソードはまったく珍しさを感じないものだ。

もちろん、婚約を破棄されて荒れるのは当然だ。しかし、そこで自傷行為という選択をするのは、その人が精神的に不安定な因子を持っていることを証明している。(長い間、わたし自身が精神を病み、同様の病の人と関わってきたことからの経験則として、精神を正常に保つための耐久性は生来のものであり、個人差が大きいと考えている)

そのような人間と結婚することを選んだ時点で、自殺にまで至るかは別として、古屋の人生に波乱を招くことは確実であったのだ。

そして、クリスティーネの志向する生き方自体が、メンヘラ特有のものである。

演劇や芸術を志すことがそうだ。これは鶏と卵だが、精神を病む人は、その多くが文化や芸術を志向している。

どうやら人類の一定数は、文化・芸術という、それ自体がお金を産まない虚業に惹かれてしまい、社会と折り合いをつけられずに病んでいくようなのだ。

クリスティーネはまさにそういうタイプの人間だ。わたしが精神を病んでいるのも、まったく同じパターンである。

また、のちになって、一向に定職につかず芸術活動をしている古屋にいらだちを覚えるようになったのも当然のことである。

持ち前の芸術志向から、同じく芸術志向の古屋と惹かれあうのは当然のことだ。しかし、相手が芸術家肌である時点で、まともに働いてくれるはずがないのだ。

わたしも同様の失敗を繰り返している。文化芸術志向の異性とばかり交際しては、毎回毎回、お互いに破滅してしまっているのだから。

ちなみに、わたしは大学の美術史学専攻出身だが、クリスティーネも美術史学専攻出身である。

 

メンヘラキラー


わたしは自分のことを(自嘲を込めて)メンヘラキラーと表現することがある。すなわち精神が弱い人に惹かれる人ということだ。

不安定な人は美しい。不安定な人との心の交流に、狂ったようにとりつかれる。さらにいえば、かつて付き合っていたメンタルの女性をkillしてしまった(自殺の原因を作ったのは自分だと考えている)ので、まさに本当の意味でメンヘラkillerにほかならない。

古屋誠一もまた、根本的にメンヘラキラーなのだろう。

小林紀晴の著書には、古屋の1997年の発言が引用されている。

「ぼくはヨーロッパに行って彼女(クリスティーネ)に会う前に、二、三人知り合った女性がいるんですけど、全員あとで精神科病院に入っているのね。だからぼく自身がそういう人を求めている、そういう人を美しいと思う何かが、あるような気がする」(小林p204)

この一節を読んで、わたしは思わず笑い声を上げた。

やっぱり、古屋誠一は、非常にありふれた、メンタルヘルスが不安定な恋愛をしている人じゃないか。

それが、写真家、写真という形態をとった作品、ファインアートの文脈に乗っているからこそ、作品として成立はしている。

だが内実は、ある種の精神的不安定さを抱えた人間関係を体験した人にとっては、「とてもよくある」ことを描いているのだ。

わたしが、自殺した元恋人と最後に(別れた後、死ぬ前)にお酒を飲んだとき、最後に言われた言葉があった。

「やっとあなたのことがわかった。あなたは、自分より弱い人が好きなんだね」

古屋誠一の著書を読んで、この言葉が脳裏に蘇った。

そして、わたしはほんとうにその種の人間であるのだ、ということを、自覚したのだった。

 

 「非常にありがちな」破綻


文化・芸術が好きな人どうしが惹かれ合い、実際の生活が成り立たずに破綻する。

その結果、精神により深く変調をきたし、自殺する。

このパターンは、とてもよくある。

精神を病んでいて、病者のコミュニティに属したことがあるひとならば、非常にありふれているものだと感じるのではないか。

とくに、インターネット上の「メンヘラ」コミュニティにおいては顕著であろう。

また、ある種の精神医療に関わっている人からみても、陳腐なほどにありがちな類型と感じられるのではないか。

もちろん、そのことで、古屋誠一の作品の価値が損なわれることはない。

しかし、あまりにもクリスティーネの見た目が美しすぎるがゆえに、表面的な物語として受容されてしまうことが歯がゆい。

もし、古屋誠一の作品を、ほんとうの意味で正当に評価できるひとがいるとすれば、それは、クリスティーネと同じように精神を病んでいる人なのではないか。

古屋によってたんねんに編纂されたクリスティーネの「物語」は、もしかしたら、同様の人生を送っているメンヘラたちに「これはありふれたものなのだ」という救いを与えるものになり得るかもしれない。

【参考文献】
小林紀晴 『メモワール 写真家・古屋誠一との二○年』(2012年、集英社、初版)
古屋誠一 『Christine Furuya-Gössler, Mémoires, 1978-1985』( 1997年、光琳社、初版)



【執筆者】
広尾蘭 さん

 


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2件のコメント

てて 返信

興味深く読ませていただきました。この文章に出会えてよかったです。ありがとうございました。

副島 返信

広尾さん今晩和。
とても興味深い内容で、思わずAmazonでMemoires 1983をポチりました。
到着が楽しみです(*^-^)

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