キリスト教と精神医療 福音ルーテル東京教会による「無料相談サービス」の試み

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福音ルーテル東京教会には、様々な悩みを抱え誰にも打ち明けられずに苦しむ人々が、訓練を受けたスタッフに相談し心の重荷を軽くできる、未信者でも利用できる無料の相談サーヴィスがあり、その名をステファンミニストリーという。

教会のサイトには「家庭や職場の人間関係、心や体の病、様々な中毒、誰にも言えない癖、経済的負債」と例示されているので、利用該当者とメンヘラを自称する当サイトユーザー層とは相当に被る筈だ。

実際、記事中でも記者が触れた様に、キリスト教と精神医療や心的問題対処の結びつきは存外深いのだが、本邦でのその印象は不相応に薄いかもしれない。今回、メンヘラとキリスト教会の間の距離を少しでも縮められばと思い、記者は福音ルーテル東京教会の関野和寛牧師の元を訪ねた。

 

インタビュアー もぐら:
はじめまして。主に心的、精神的な問題を抱えた人を中心に、広く生きづらさに見舞われている人達を孤立から守るためのインターネットサイト、メンヘラ.jpから外部委託されて取材に参りました、記者のもぐらと申します。

今回、関野先生の元に伺う事になりました経緯なのですが、精神疾患や精神障害を抱えた人の孤立の問題を扱っていますと、医療の該当下に完全には収まりきるとは言えない、家族や社会や文化やのあり方の問題を意識せざるをえない事が多くありまして。それだけなら多くの関係者が感じるところではあるのでしょうが、わたくしは、他の先進諸国と比べての日本におけるキリスト教の、不在と見紛う程の弱勢(注:日本のキリスト教徒は全人口の1%前後)という事実と照らし合わせて見えてくるものがあるのではないかと考える所があり、この件でお話を聞ける方を探しておりました。

で、そんな中、わたくし今回、関野先生のツィッターを拝見しまして、ジャン・バニエ(※1)の著作に感銘受けてらっしゃるご様子(※2)を覗ったんですけども、私もバニエが好きで、日本ですと「べてるの家」(※3)がありますけれど、あそこは「ラルシュ共同体」(※4)と違い、知的障害ではなく精神障害中心で、カトリックではなくプロテスタントの教会がベースという違いはありますけれども、この世で生きづらい人達の中に、単に疎外されているという事だけではなく、人間の大切なものを見いだしていく姿勢ですとか、単に慈善や庇護の対象というに留まらない、一般社会のあり得べきあり方のモデルとして提示する志の高さですとか、虚飾のない豊かな共同体生活を営んでいる有様が非常によく似ているなと思っていまして。

関野先生も、バニエに感じ入るところをお持ちの様ですし、今回、ステファンミニストリーのページを見まして、苦境に追い詰められているのに、誰にも話せないですとか、人が孤立していってしまう事の深刻さを相応しく捉えて下さってくださっている方々なのかなぁ、という、勝手な思い入れかもしれませんが期待を寄せまして、メンヘラ.jpで日本福音ルーテル教会さんの試みを紹介して、サイトのユーザーと繋げるお手伝いができれば双方に取って有益ではないかと思いまして、編集長の小山氏の賛同を得て、今日はお話を伺いに参りました。

(※1)
ジャン・バニエhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%8B%E3%82%A8

(※2)
https://twitter.com/kazuhiro_sekino/status/940531386775044097
https://twitter.com/kazuhiro_sekino/status/896955960576618496

(※3)
べてるの家
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B9%E3%81%A6%E3%82%8B%E3%81%AE%E5%AE%B6

(※4)
ラルシュ共同体については

https://ci.nii.ac.jp/naid/120006460292

でも触れられている様に、「弱さ」に開かれた共同体への帰属が齎す解放感、「無くせない苦しみ」への注目、「降りていく」関わり、死の不可避性から目を背け成立する既成市民社会への対抗文化的意義など、後述する「べてるの家」の中心メンバー向谷地生良が唱えるのとよく似たコンセプトが語られる。

 

ステファンミニストリーの概要


関野牧師:
わかりました。そうですね…、一つですね、綺麗事だけ話せっていわれれば話せるんですけれど、綺麗事ばかり話せない部分が、現実がありまして、包み隠さずお話して…。

…メンヘラ.jpのサイト拝見させて貰って、当事者の方々が繋がって情報共有できて、孤立化を少しでも減らせる様な働きなんだなと思いました。うちの教会にもですね、多分精神疾患持った方々沢山いらっしゃいますし、そういう方がいて下さるっていうのが、本当の共同体のあり方だと思っているんですね。

だけどもキリスト教会って、今の日本では、社会の中で、ハイステータス、ハイソサエティの方々が主流だと思うんです、これまでの所は。精神疾患の方が来られると、ちょっと変な人だっていうような目で見たり、なんか迷惑な人来たなと思ったり、無視したり、そういう事も時にはあります。

でも本当は、すべての人がいる場所がキリスト教会だと思うんですね。で、今、僕の地盤は、難民申請している外国籍の人から社長まで、お年寄りから赤ちゃんまで、全ての世代、全ての状況の人がいるのがうちの教会の強みだと思っていて、ただ、いっぱい失敗していまして…

 

もぐら:
あー…

 

関野牧師:
おそらく精神疾患の方で、病識の無い方ですね、やっぱりいらっしゃいますよね。かつ、病識ないばかりか、生まれからすごく傷ついていて、複雑な家庭環境だったり社会状況の中で苦しんで来た人っていうのはいっぱい居て、教会の中で暴れてしまう人がいる、暴れちゃう事件っていうのは何度も何度もあったんですよ。そしてそういう場合は、出ていってもらうことにしているんですよ。誰が来ても良いけど、誰も他者やグループをかき乱す事は許されない、というところで。

そこに、いつもね、なんかすごく矛盾を感じていて。ホントは誰が来ても良いし、生き辛さ感じた人の為のキリストだと思っているんですけれども、一番傷ついている人と過ごすっていうのは、やっぱり覚悟が必要ですよね。そういう人々を招き一緒に過ごさなきゃいけない、過ごしたいと思いつつ、しかし現実にはなかなか出来ないという状況の中で、ステファンミニストリーっていうアメリカのメソッドを取り入れました。

それは例えば、自分が癌になったとか、家族が自殺したとか、様々な家庭の問題とか経済苦とか、また性的志向ですね、LGBTとか、まぁ言えないことっていっぱいありますよ、誰もがあるんですよね。で、そういう悩みに寄り添う、寄り添い人をトレーニングする方法なんですね。で、それの中で一つメソッドがあって、精神疾患だったり自殺願望があるかたは、必ず医療と繋がってもらうと、かつそこにプラス教会として一つの繋がり、先程の言葉を借りるならば、孤独感を和らげるそういう寄り添いをしていくメソッドをやっているんですね。

具体的に何やるかというと、週に一回コンタクト取って、教会だったら一回会う事になるんでしょうけど、会って話しして、何でも話しして、何でも話聴いて、守秘義務がそこにあって、で、何言われても裁かないですね。思ったこと聴いて、それを受け入れる。来られなかったら、電話、メール、ラインでも何でもいですけどね、そういう寄り添いをしているんですね。

だけど、そのステファンミニストリー入れてから、ひとつ気がついたのは、ガイドラインを作れたんですね。あの、精神疾患のかた、来てほしい、いるべき、けれども、本当は医学的治療が必要なのにそれを受けずに教会に助け求めて、っていうのはNGにしているんですね。でやっぱりこっちも受け入れるっていうことは境界線(※5)をつくらなきゃいけないんですね。境界線を教会が設けられたってことは、大きなことだったと思います。

助けを求めてくる人って藁をもすがる思いで来てるので、何でもよしよしつらかったね、いいこいいこってやると逆に甘え出て、本当にこう…たとえば母親から得られなかった愛情を求めて爆発するっていうのは当然起こりうることなのかなぁと思うんで、両者が傷つかない為にバウンダリーを設けたっていうのは、大事なことだったなぁ、っていう風に思っているんですね。

そうして教会で、二年三年かけて、枠組みと、寄り添う人の方をトレーニングしてた結果、やっぱり、そうやって病持ったり傷ついたりした人ってセンサー敏感なので、ここ来て、ここ大丈夫な場所だなとか、関野って人間は話して大丈夫なのかなとかって多分すぐ察知しますよね。

だから、逆に悩み持った人が来やすくなったし、話やすくなったと思うんです。結果的にドラッグアディクション、歌舞伎町の性風俗で働いている人とか、LGBTの人とか、そういう人がね、沢山来るようになりましたね。で、そういう問題を、うちの信者、トレーニング受けた信者に話せるようになったんですね。中には、親にも家族にも話したことないっていう事を話してくれる様なケースも出てきたんです。

なんかその人は、病とかアディクションが無くなるかっていう事はまた別問題として、ただ教会来て、家族にも言えないことを言えたっていう事は、やっぱり救いの一歩、癒やしのプロセスだと思っているので、それは大きい事だな、と思っているんですね。私がジャン・バニエ凄いなって思う事は、彼が、『Becoming Human』(邦訳『人間になる』新教出版社)かな?あの本で、目も見えず耳も聞こえない子供を受け入れる時、どうするかと言うと、愛が欲しくてマッドネスになっている、叫びわめき暴れている子供を受け入れる訳ですよね。

…でもね、私はそれが出来ないですよ。もちろん時にはやれるときもありますよもちろん。一緒に病院に行ってね、暴れて、殺すぞとかね、ドクターに楯突いちゃう人とかいっぱい居てね、そんな人と教会に帰って一晩一緒に過ごしたこともありますけども。でもやっぱり、同時に全ての人がいるので、ここは、精神障害の人のためだけの場所じゃなくて全ての人の場所なんだから、ずるいけどバランス取んなきゃいけないっていう矛盾はある。そうですね、そういう難しさはありますね…。

私の場合、家族の中に知的障害者も精神障害もったものもいるんで、だから、そういう病気を抱えて生きている人と過ごすっていうのは、僕にとっては当たり前の事なので、別に特別じゃないんです。だけど、言うほど簡単じゃないわけですよね。だから、その、毎日チャレンジですよね…。

(※5)
人間関係における境界線を引くことの重要性を説いた『境界線』はキリスト教徒の間で有名http://www.jibikiami-book.jp/?pid=1518031

 

教会と精神医療との連携が取れればベスト


もぐら:
そういう中で、医療ですとかその他の援助とこういったステファンミニストリーの様な試みを役割分担的に使っていければ望ましいのでしょうか。

 

関野牧師:
そうですね、あのやっぱりね、例えば精神科行ったとしても診察時間三分くらいかもしれないですよね、で、そこで必要な処方はして頂く、と。でもじゃあ話しきれない分をね、教会で誰かが聴いてあげたら、かつそこは連携できたらベストですよね

 

もぐら:
実際はそういう形になる事というのは?

 

関野牧師:
精神疾患持った方々にうちのミニスターが寄り添う時は、実際病院行っているかたなので、今病院でこうなんだとか、今治療こういう状況なんですとかですね、色々話をきっとしているーー守秘義務がある形なんで、そこは聞いていないんですけどーーと思うんです。だけどその病院やめろとか、断薬しちゃえとかそういう事は一切なくて、だからやっぱり病院、医療では補えないところ、魂の問題ですよね、そこに寄り添えたらベストですよね。それを目指しててやっていますね。

 

もぐら:
孤立がまずいという認識は通常の障害者福祉や精神医療の世界でも有する人は結構居るみたいで、「取り敢えず話してみてよ」みたいな駆け込み寺的な、というんですかね、公的援助や自助グループやボランティア団体はかかなり既にありますけれども、特にこちらがキリスト教会としてそうした試みをして下さるという場合に、他と違う持ち味や特徴がもしあれば、教えて頂きたいのですけれども…。

 

関野牧師:
そうですね…。うちの教会ではAA(アルコホーリクス・アノニマス、無名のアルコホーリクたち、と称するアルコール依存者達の自助グループ)(※6)の何グループかに、貸しているんですよ。

 

もぐら:
ああ、12ステップとかの…?

 

関野牧師:
そうですね、2つグループが使っているんですけど、まぁ色んな自助グループがあると思うんですけどね…、教会だからっていうのは…、要するにその、私もミニスターたちも、例えばアルコールとかドラックアディクションの専門家ではないんですよね。

ただやっぱりベースになっているのは、キリスト教の聖書なので、その人のね、過去を受け入れて、キリスト教的に言うんであればその人が罪を赦されているっていう事を伝えて、そしてその人がどんな状況であれ、祝福さている存在なんだと、居ていい存在だし、大事な存在なんだという事をね、伝えるのが教会な訳ですよね。それがキリスト教会が持っている強みですよね。

(※6)
AA日本ゼネラルサービスhttp://aajapan.org/

 

精神医療分野へのキリスト教の影響について


もぐら:
確かAAは、12ステップにも名残が窺える(※7)様に、元はキリスト教の団体から派生(※8)してますよね。他にも私が知っている限りでも、境界性人格障害向けの弁証法的行動療法の開発者マーシャ・リネハンは、彼女自身も境界性人格障害で苦しんで、カトリック信徒として礼拝堂でお祈りしていた時にヴィジョンが啓けて画期的な療法の開拓に繋がっていった(※9)らしく、また、べてるの家の精神保健福祉士の向谷地生良さんも、福祉を学んだ北星学園大学時代の学長が無教会系の旧約聖書学者山崎保興で、彼を通じてパウル・ティリッヒの様な神学者の思想に触れた(※10)という来歴があるようで、精神医療分野の目立った活躍を見ると、かなり直接的にキリスト教から何かを得て画期的な働きをしている気配がどうも窺えるのですが、精神医療とキリスト教の特段の結びつきというものはあるのでしょうか?

 

関野牧師:
そうですね、わたしは余り教会を、例えば精神障害持ったかたがたの為の共同体に特化して発展させて行こうとは思っていないんです。ただ誰もが来られて誰もが重荷を下ろせる場所じゃなきゃいけないと思うんですね。ただそれがやっぱりエリートや知識人、社会的ステータスがある人にね、やっぱり占拠されていた状況なので…。

 

もぐら:
わたし自身も、そういう雰囲気への違和感は身に覚えがあります。で、正直私自身そういった雰囲気を面白く思わないようなところがあるので、関野先生が問題意識をお持ちのご様子は嬉しく思います

 

関野牧師:
…どうでしょうかね、あの、本当にSOS出さなきゃいけない人って出せてないと思うんですよね。

 

もぐら:
そうなんですよね…。

 

関野牧師:
そうですよね。やっぱりAA行くとか精神科行ける人っていうのは、ある種判断能力と行動力があって、社会的基盤がもしかしたら本当に苦しんでいる人より、一つ上の段階なのかわかんないですけれども。例えば、AAとか治療に結びつく前に、教会行ってまず話して、実はこんなんで苦しんでんだ、と言って、でジャッジされずに受け止めて貰い、そして受け止められた事によって、自分に必要なものが見えてくる、という教会が一つのステップになればいいと思うんですね。心を病まない人は居ないですし、人生の過ち担わない人も絶対居ないので、教会こそそういうものを下ろせる場所なので、それを下ろして、自分は神に赦されて祝福されているんだ、生きてていいんだ、って思えるんですよ、そう思える場所って中々無いと思うんです。それをね、提供したいなぁと僕は思っているんですね。

 

もぐら:
医療に繋がる前にある意味じゃ気軽に来れるという…。ただ、日本の特殊事情かもしれませんけど、仰るようにエリート向けの、慣れない敷居の高い場所みたいなイメージはかなり日本社会の中で一般的で、そんな中で困窮した人たちに向けてこそ扉を開いてくれているのに、よりにもよってそうした人達こそ来づらい様な現状っていうのが実際あるんじゃないかと思うのですが、その辺り是正する為に、どの様な工夫をなさっているかお考えを聞かせ願えますか?あるいは、サイトの読者向けに直接メッセージを頂けてもありがたいのですが…

 

関野牧師:
まぁ、聖書読んでみると、イエスという人は、精神病んでる方々のところに出向いて来るわけですよね。で、彼らと出会う訳ですよね。その精神に抱えた重荷から解き放たれた彼らが今度はキリストの素晴らしさを伝えて来る訳ですけれども、うちの教会ではそうやって、あの、心の重荷抱えている人が来てて、でうちのステファンミニスターと共に集合生活して、で、そういう中でやっぱりこう重荷を一つづつ下ろせる姿っていうのを見ている訳ですよね。で、そうすると今度ね、ケア受けてた人がね、人呼んでくるんですよ、教会にね、居場所だよ、っていってね。だからねそのダイナミクス見ている時が僕は一番幸せなんですよね。

自分の家族ーー既にいるんですけどーーが心病んだり一人ぼっちになったときにね、こういう教会があって、どんな状況であろうと、笑顔で迎え入れてくれたらね、それは本当救いの場だろうなって思うんですよね。絶対なきゃいけない場と思うんですよね教会って。そういう場所にしていきたいって、僕は諦めてないんですよね、まだ。

 

もぐら:
私も、まだまだキリスト教は日本に必要だなという思いが強くありまして、関野先生のお考えを伺えて大変嬉しい気持ちになります。

 

関野牧師:
ありがとうございます。ただ同時に、本当にね、ジャン・バニエすげぇなって思って。やっぱりなんかねぇ…、当然ですよね、周り傷つける人って結構一杯来る訳ですよね。そこですよね、そのチャレンジですよね。刑務所から出てすぐそのままダイレクトで来る人もいるし。やっぱり心病んでらっしゃるんですよね。刑務所だって別にね、病院じゃないんで、刑期満たせば出しますから、そういうかたこそ居場所がないじゃないですか。

 

もぐら:
周囲を傷つける人の受容というお話で思い出しますのは、べてるの家と縁の深い浦河赤十字病院の精神科は、今より精神病院の体制が閉鎖的で管理主義的であるのが普通だった当時から開放的で自由な体制を敷いていて、そんな中で統合失調症の患者さんが、同じ病院の患者さんを被害妄想で刺し殺してしまった、という事件があったらしくて。

で、病院の開放的な雰囲気が裏目に出た形で、管理体制の杜撰さとしてメディアなどから叩かれたらしいんですけど、「浦河でやっていることが後退するようなことをしないでほしい」(※11)とそれまでの体制の存続を望む声が、被害者の遺族のかたからも挙がったといいます。向谷地生良さんの仰る、個々人よりも大きな生命との繋がりの触れ心地の尊さを覚えつつも、自分が責任ある立場だったとして、同じ様に言えるかな…と考えると難しいと思ってしまいます。

 

関野牧師:
そうですね、中々ね…。

(※7)
12ステップに窺える宗教性の名残については、メンヘラ.jpにも体験談ーーただし記者には良い作用を及ぼさなかった様であるがーーがあるhttps://menhera.jp/6426

(※8)
アルコール依存症からの回復のためのセルフヘルプグループであるAA(アルコホーリ クス・アノニマス,匿名のアルコール依存症者たち)は,プロテスタント教会の霊性刷新運動であるオックスフォード・グループ運動の直接的な影響を受けて1935年にアメリカで成立したhttp://kgujesus.kanto-gakuin.ac.jp/pdf/report_10.pdf

(※9)
マーシャ・リネハン

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%8D%E3%83%8F%E3%83%B3

『ある夜、チャペルでひざまずき十字架像を見上げていると、チャペル内が黄金に輝き始めました。自分に何かが起こりました』と博士は述べる。『輝きに包まれる経験をしました。自分の部屋に駆け戻り、何と私は『自分自身を愛してる』と言ったのです。忘れることはできません。自分のことを、自分自身だと言ったのはこの時が初めてです。私に変化が起きました』

https://blog.goo.ne.jp/true-vine/e/7a2360cdee8228a9724fe6baddd5014a

(※10)
向谷地生良

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%91%E8%B0%B7%E5%9C%B0%E7%94%9F%E8%89%AF

彼の標榜する「降りていく生き方」はティリッヒの『ソーシャルワークの哲学』に由来すると言い、また、「人間が本来になっている苦悩ープレディカメント」の概念はティリッヒの『生きる勇気』等に登場する。ティリッヒ自身の心理学者ロロ・メイとの深い親交も有名。

(※11)
印象深いので前後を引用する。

"納棺式には、異例のこととして加害者と被害者の家族がともに参列していた。それができたのは加害者も被害者もべてるの家のメンバーだったからという事もあったが、やはり竹内勇人さんの父親、竹内東光さんの存在が欠かせなかった。竹内さんはこの自己の本質を理解し、納棺式に加害者の両親を受け入れただけでなく、丁重な気遣いすらみせていたのである。"(斎藤、2010、p.92−93)

"竹内東光さんは私のインタヴューにこう答えている。「ふつうの方は、責任とかなんとかいう事になるんでしょうが、そういうのが無いんですよね、まったく。不思議な感覚としかいいようがないんです。(加害者は)四十数歳と聞いていますから、ご両親は(自分たちの場合より長い期間この病気に)悩んだことでしょう。(事件を起こ)されて苦しんだりというのとまたちがう苦しみがあるはずですよね、病気で悩んで、それで事件で悩むの、ちょっとまたつらいんじゃないかなと思います」"(同上)

 

キリスト教の教義と医療介護福祉分野での実践の繋がりについて


もぐら:
もうひとつ、刑務所のお話が出たので伺いたいのですが、前から少し気になっていた事があります。医療介護福祉分野に浸透するキリスト教関係の書物を紐解きますと、傷や苦しみや弱さや孤独といった事柄への掘り下げが深く、正にその様な状態の中に置かれ勝ちな病者や障害者の支えとして頼もしさを覚えます。

一方で、キリスト教の人間観の中心には、罪という道義的含みのある概念があります。ですが病人や障害者が当事者の世界では(例えば囚人が当事者である場合と違って)さほど腑に落ちないせいなのか、そこまで印象深く語られている様にどうも感じません。

 

関野牧師:
つまり…、福祉的なキリスト教が、(本来のキリスト教と)乖離しているのではないかという?

 

もぐら:
とまでは言いませんが、私の読解力では繋がりが見えづらいところがありまして、ご説明頂ければと思うのですが。

 

関野牧師:
聖書を読むと、例えば、ずっと寝たきりだった者を、また心病んでる者を、キリストが癒やす時に、貴方の罪は赦されたっていうんですね、それは時代的にはそういうもの悪魔憑き、悪魔に取り憑かれているって理解されていたところもあるんですけども。だから悪魔に取り憑かれているんじゃない、罪を赦されたんだ、だから、身も心も清くなって生きていきなさいっていわれているのかもしないけれども、今日的に解釈するのであれば、罪っていうのは、自分が自分である事を喜べない事がね、私は罪だと思うんですよね。

そうするとやっぱり、心身ともに病に蝕まれ、それが毎日の様になってたら、自分の命なんか喜べないし、他者を妬んだり羨んだりして、また神をも呪う様な思いになるんだと思うんですね。

でも、そこには意味があって。そこは一人じゃなくて、神はその重荷を担っているし、それを一緒にね、時間と心を割いてね、寄り添ってくれる仲間がいるんだ、という事によって、その人の孤独感や痛みを取り除く事ができるのであれば、それが、その人が自分の命を喜べるステップになると思うんですね。

だから、心身の癒やしと罪、というのは、何か別のようで実は一つで、神に与えられたいのち、今日というものを喜べるか否かっていうところだと思うんですね。だからって、ちょっと(関野牧師自身が)色々課題抱えてて、最近全然ハッピーじゃなくて、本当、罪に支配されているなぁ…って思うんですよね。だから最近喜べてない…。だから僕も人に話すし、愚痴るし、助けて、っていうんです。だから僕も教会員に助けてもらうし。だから何か一方的にね、教会とか聖職者の誰かが助けたり赦すっていうことじゃなくて、僕はもう誰かに赦されなきゃいけないし、助けらんなきゃいけないし…、寧ろなんかね、逆に、悩んだ人が教会来て、その人が救われましたとか、ちょっと心軽くなりましたとかいってくれると、何か僕が救われた感じするんですよね。だからね、そう、目の前の人とね、魂共鳴させられた時に、お互いこう、神に救われて行くのかなぁ、と思うんですよね。

この間ね、とあるキリスト教大学に礼拝メッセージしに行ったら、なんかね、睡眠障害系の障害持った学生がいて、礼拝中絶対寝ちゃうんですって、障害があるがゆえに。でもなんか、僕が結構ガンガン激しく説教したら、生まれて初めて寝ませんでした、って言ってくれて、僕はなんか彼に凄い救われたと思うし、彼も生まれて初めて礼拝で寝ないですんだって言って、ものすごく共鳴できたんですよね。だからあれじゃないかなぁ、罪の赦しとか救いとか癒やしとかいうのは、交換することなんじゃないでしょうかねぇ。だから共同体性っていうのが必要になるんだと思います。

 

もぐら:
『傷ついた癒し人』というナウエンの著作のタイトルを、今の先生のお話で思い出しました。ステファン通じて救われた人が呼び水になって、他の傷ついた人達を誘うというお話にも、そういう面はあるのかもしれませんね…。

 

ステファンミニストリー利用者は教会に定着しない?


もぐら:
ステファンミニストリーを受けて、元気にやっていく足がかりが出来た人は、元々持っていた問題以外でも、教会の活動に積極的な参加したり、ミニスター以外の教会員と交流を広げていったりというのは珍しくないんでしょうか。

 

関野牧師:
今までに、色んな方が来て、アディクションだったり、癖(へき)をもった人が来て、根本には心の問題、後は孤独があったんですよ。だけどここでうちのミニスターと出会って、半年一年掛けて、分かち合って、次のステップに行けて、そしてうちの教会のメンバーになってくれたらそれが一番いい話なんですけど、意外と一期一会でそのまま来ないんですよね。

 

もぐら:
それは淋しい気がしますね。

 

関野牧師:
淋しいんですけど、またやっぱりあの、思う様な感じでこの教会のメンバーになって何か尽くしてくれたらいいけど、きっとやりたかったこともあるだろうし、教会のメンバーになる為に来た訳じゃないと思うんで。そういう体験を通すと、また聖書に戻って、キリストと出会って救われた人っていうのも別にキリストについていった人ばかりじゃなくって、そのままどっかいっちゃう人沢山いるんですね…。

 

もぐら:
そういう事まで、聖書に書いてある…

 

関野牧師:
そう、書いてある。だからそれもまた一つの真実だと思いますし。ルカ福音書でキリストの横で処刑されていた犯罪人なんか、最後キリストにこんな私を思い出して下さいって言ったら、いやお前は一緒に天国行くんだって言われて救われちゃうんですけど。キリスト教の救いって一期一会だと思うんです。だから心の重荷背負った人がここに来て、それが癒やされて、ここに来てよかった、神に会えたと思えればそれで良いと思っていて…

 

もぐら:
んー、やはりちょっと淋しい様な気がどうしても私はしてしまいます…。

 

関野牧師:
淋しいですよね。淋しいし、怒りも感じる事もありますけどね。半分くらいの人が、そのまま去っちゃうんじゃないかなぁ…。

 

もぐら:
ステファンで招かれた人同士、訓練を受けていない人同士の交流みたいなものが良い作用を齎すような事はないのでしょうか?

 

関野牧師:
それはないですね。基本的にその、訓練受けた人とケア受ける人の関係なんで。まぁそういう風に守秘義務があるんで、ケア受けてんなぁとかって他人にわかる事はないんで。ただやっぱりうちの教会の毎週配るお便りには、うちの教会には訓練受けたミニスターがいるんで何でも話して下さい、と書いてあるんですね。で、日本の教会なんかは多分おいで下さいとかそんな事書いてあるけど、行ったところで、堅苦しいおっさんが居て、話せないじゃないですか。

大体日本のキリスト教会って八割九割が男性の聖職者なんですよ。でも教会の信者って八割九割が女性なんですね。ねじれがあるんですね。女性がね、女性特有の悩みを男に話せるかっていったら話せないですよね。逆も然りで、もし女性が聖職者で、男が男特有の癖(へき)があって、それ女性に話せるかっていうと話せないじゃないですか。で、ステファンミニミニトリーは同性同士でやるんで。男女入れて、色んな世代の人がミニスターとして居るって事はとっても心強いことですよね。

 

性差の扱いについて


もぐら:
ちょっと今、性差のお話がでましたけど、教会員に女性が多いという件とも重なるのかもしれないですけど、孤立という事に関しては比較的男性の方が陥りやすい傾向があるという話もあります。今のお話で思い出しましたのは、ヘンリ・ナウエンがバニエの著作の中で最も評価している『愛と性の叫びー心に傷を負った人のー』の中で、男性だけ女性だけに分断されずにラルシュ共同体が男女混交体制を取っている事の意義深さが強調ーー創世記の「神は人間を創造された。男と女に創造された」という神学的裏付けもあっての事なのだと思いますがーーされています。(※12)

一方で、私達が自助グループなど作っても、しばしば女子会と男子会に分かれてしまったり、そうして女性の方は社会からの関心も高く巧く汲み上げられて軌道に乗っても、男性の方が深刻である割には周囲に相応しく受け止めて貰えなかったりする現状と、そのバニエの主張を照らし合わせると、中々考えさせられる所があります。異性同士が共に居る事で生じる問題を回避するという良さがある反面、気付かず色々失ってしまっている人間的な豊かさがあり、陥ってしまっている貧しさもあるのではないかと。このあたりの事、ご意見頂ければと思います。

 

関野牧師:
そうですね。ステファンミニストリーに関して言えば、ケア関係は絶対同性なんですね。意外と聖職者に纏わる性的問題って多くて、相手ね、一番の傷をこっちに…

 

もぐら:
露わにする訳ですからね、権力関係も生じるし…

 

関野牧師:
ええ、ケアの関係においては、同性間という事は譲れないし、わたしも女性とは一対一で密室で話すのは避けますしね。望んでいる質問のお答えにはならないと思うんですけど、確かに本当男性の方が孤立しやすいんだと思うし、教会に女性が多いのは、やっぱり通って友達作って、おしゃべりできて、自分の居場所を作りやすいし見つけやすいと思うんですよね。男ってプライドあって…

 

もぐら:
今、関野先生の仰ったような女性的なあり方というのを、もしかしたら男性も発揮できる場所がキリスト教会なのではないか、という期待も私にはあるのですけれども…

 

関野牧師:
そうですねぇ、わたしなんか近くの図書館行くとね、居場所のないお父さんいっぱいいるわけでして、図書館か朝からビールになっちゃうわけじゃないですか、引退して。そういう時に、毎週、週何回か通える場所があってね、それで自分の存在が認められて、そういう場合だけじゃなくて、今度は他者の存在を認めていける様になるっていうね、歳を重ねたからこそできる豊かさでもあると思うんですよね。

 

もぐら:
日本は特に男性が孤立しやすい様で、この辺りももしかしたら、教会不在の徴候ではないかと思うこともあります。

 

関野牧師:
うちの教会員にもね、孤独死してしまった男性とかいましたのでね、この地域は特に、孤立している高齢者、とっても多いと思いますね。で、ねぇ、ホームレスの利用も多いから、大体彼ら男性だから、行き場ない人多いでしょうね。病院でもなくて、図書館なんかでもなくて、笑顔で迎え入れてくれて名前読んでくれる場所があるだけでね、人ってもしかしたら救われるのかもしれない、そういうふうに思ってね、教会っていうのは、孤独癒せる場所なのかな、って思いますね。

(※12)
記者による抜粋の連投 https://twitter.com/sagtmod/status/1070978455473315840

 

精神面以外の援助と、教会の関係


(ここから先は、後日、日曜礼拝のお務めの合間のごく短い空き時間に伺った)

もぐら:
ステファンの利用者が教会に根付かないというお話で思い出したのですが、べてるの家が乗り出した当地名産の昆布を扱う企業経営のルポルタージュで、社会資源の活用に貪欲なソーシャルワーカーが中心で作り上げた居場所だからこういう形になった、臨床心理士であればこうはならなかったという所感が述べられています。そういえば、ラルシュのバニエも元は軍人、そしてアリストテレス(昨今の政治哲学における共同体主義の源泉の一つでもある)の研究者で、共同体的な生活形成の指導者には相応しいキャリア形成をしてきた人と思えます。

また神学でも、個人の魂に留まらない物的、肉体的な面まで含めた救済と共同体形成を掲げるN・T・ライト(※13)の様な人の最新ーーといっても、日本への流入には30年程の時差がある様ですがーーの潮流が鳴り物入りで邦訳されはじめています。精神医療との連携のお話は既に伺っていますが、福音ルーテル東京教会様としては、そうした、魂の救済や心の問題以外の部分でのサポートとの連携はどうお考えでしょうか?

 

関野牧師:
既に具体的にあって、都内の女性保護シェルターーーお名前言えないんですけれどもーーがあって、そこのスタッフが、教会だったら大丈夫なのかなって、利用者さんをここに連れてきてくれたんですね。一緒に礼拝出てくれて、そのかたも、利用者の女性も、この教会通って、今度ね、近い将来洗礼受けるんじゃないかな、って思っているんですけど、今まではその女性シェルターは、物資、現金のサポートしかしてなかったんです、モノとお金ですね。だけどそうではなくて、ステファンミニストリー通して、向こうが、この人の居場所に教会がなってくれますか、って言われたので、ステファンのミニスター紹介して、その利用者さんもね、シェルターしか居場所なかったかもしれないけど、ここにもう一つ居場所ができて、そういうね、お金とかモノだけの支援だけじゃなくて、本当、この同じ東京にあるセンターと協働というのが初めてできたんですよね。たった一人でしたけど、ものすごく嬉しい事でしたね。

 

もぐら:
モノとお金の支援と、魂の救済と、両方で良い連携が取れたという事ですね。向こうから持ち掛けがあったというお話の様ですが、教会を頼って来た人のそうしたニーズに教会サイドから応じる試みはどうなっているのでしょうか。

 

関野牧師:
あくまでも向こうからの申し出に応じる、こっちから困った人を探して捕まえてって事じゃなくて、向こうが発してきたSOSをしっかり丁寧にキャッチしていくって事を目標にしているので、こっちもミニスターって10人位しかいないので、毎週毎週来られちゃうと、一回きりのケアじゃないのでね、人に関わるっていうのは大事な事なんで、あんまり手広く誰でもすぐ来てくださいって事ではなくって…

 

もぐら:
教会の外との連携ではなく、教会の中で、魂の問題以外にも取り組む様なお考えっていうのは今後出てくる様な事はあるでしょうか?

 

関野牧師:
きっと誰もが魂の問題抱えて教会来ているんですけど、今日だって礼拝出てお茶飲んで、それだけじゃ魂救われるかわかんないですよね。もうちょっと何か欲しい人居ると思うし。キリスト教会ってまだまだ礼拝出てそれで終わりっていう所あるので、礼拝後、牧師だけでなくて信徒が、誰かの魂の傷に寄り添える、そういう共同体にしていきたいと思っています。

(※13)ライトとは誰なのかhttp://oono.kyokai.org/_src/766/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88%E3%81%A8%E3%81%AF%E8%AA%B0%E3%81%8B.pdf

 

雑感ー取材を終えてー


いかがだったろう。

日曜礼拝後の取材部分は十分な尺が採れなかったが、一息つく間すら殆ど無い、礼拝と会議の間のごく短い間に取材に応じてくださった関野師に責はなく、ひとえに無計画な記者の至らなさ故にである。

物的、身体的領域と、心的、精神的領域のあり得べき関係について、キリスト教では諸説紛々であるが、中でも位置づけと意義付けに注意が払われる個別問題が「労働」と「結婚(或いはもっと広く「性」)」である。

例えば、古い神学者ではあるが関野師と同じルター派のボンヘッファーは、政治権威、労働、結婚、教会の4つを神の委任対象として掲げている。一般に考えられている様な「政治と宗教」ではなく、政治と宗教(教会)と並置される独特の地位を労働と結婚に認めている訳だ。思うに、宗教を除き単に共同体の形成を考えるというだけの場合でも構成員の基本的な営為として扱いを避けては通れず、更にまたメンヘラと社会との関わりを語る上でも非常に大きな比重を締めて然るべきーー更に言えば、近代的な学校教育がこの2つの営為からの執行猶予期間を設けて営まれる事も、日本を代表するサブカルチャーである所謂オタク文化が、正にその時期の環境に置かれた青少年少女に強い傾倒を示すことも、大変興味深いのであるがーー事柄である。機会があれば、結婚(性)と労働の2つの事柄とキリスト教との関係(※14)も、メンヘラを見舞う問題の射程に収まる形で掘り下げてみたい。

今回、取材を申し出て時間を割いて頂いた訳だが、こちらの言葉に注意深く耳を傾けて真剣に理解に努めて下さっているご様子の関野師から、記者は非常に尊重されているという実感を得た。立場を入れ替えて聴き手の範を示された体で些か面目無いが、記者の方はそれに促され、役回りを弁えずやや饒舌になりすぎたかもしれない。

語る時は、記者を寛いがせる為の打ち解けた雰囲気を壊さぬ心配りを行き渡らせた様な穏やかな口調ながらも、ご自身の経験を顧みざるを得ぬ話題に及ぶと、難しい場面での選択の苦渋を実際に味わい直して、ご自身の至らなさの様に感じていらっしゃるものを明け透けにこちらに打ち明けて無力さを曝け出している様に見える事も何度かあった。

その様に印象的な関野師の姿は、文章にしてしまえば相見えた現場で程には伝わりづらいかもしれないが、間投詞や口語的な語尾、文の繋ぎなども極力そのまま文字に起こすことで出来るだけ雰囲気が残る様に努めた。

多忙の合間を縫って、海外出張帰りで睡眠を取る前だというお疲れの中インタヴューの時間を設けて下さった関野師には篤く御礼を申し上げたい。この取材記事が、人気牧師として教会内外から脚光を浴び精力的に活躍なさる関野師の、流通するイメージからだけではもしかしたら見逃してしまいやすいかもしれない豊かな一面を、読者が垣間見れる機会にもなれば幸いである。

(※14)例えば、アメリカの新カルヴァン主義の旗手の一人、比較的保守的な神学的立場ながら文学的感受性に富み都会の若者中心に支持を集める事に成功した人気牧師ティモシー・ケラーの邦訳既刊の中で、個別問題を扱った本は正に「結婚」と「労働」についてのものである。



【参考文献】
向谷地生良『「べてるの家」から吹く風』いのちのことば社 2006年
向谷地生良『安心して絶望できる人生』NHK出版 2006年
向谷地生良、他『コミュニティ支援、べてる式。』金剛出版 2013年
向谷地生良『精神障害と教会』いのちのことば社 2015年
斎藤道雄『治りませんように-べてるの家のいま』みすず書房 2010年
ジャン・バニエ 『コミュニティー―ゆるしと祝祭の場』 佐藤仁彦 訳、一麦出版社、2003年
ジャン・バニエ 『愛と性の叫び―心に傷を負った人々からの』 江草安彦・渡辺和子 訳、ぶどう社、1990年
スタンリー・ハワーワス、ジャン・バニエ『暴力の世界で柔和に生きる』、五十嵐成見、平野克己、柳田洋夫訳、日本基督教団出版局、2018年
ディートリッヒ・ボンヘッファー『ボンヘッファー選集4現代キリスト教倫理』森野善右衛門訳、新教出版社、1962年

 

【インタヴュイーについて】

福音ルーテル東京教会ウェブサイト、関野和寛牧師の簡単なプロフィールあり

http://jelctokyo.org/about/

ステファンミニストリー

http://jelctokyo.org/stephen-ministry/

(サイトにも記載があるが、病理的問題を抱えるかたの利用に際しては、医療との結びつきとの併用が前提である点、くれぐれもご注意願いたい)



【執筆者】
もぐらクン

【プロフィール】
キリスト教の主に共同体主義思想に触れる内、それがDisability and Vulnerability(障害と脆弱)のテーマと深く結びつく事に気づき、潜んで生息していたメンヘラ界隈でも姿を現す様になった生き物。

宗教とは一見相性が悪そうな、巷を賑わす社会生物学及び進化心理学にもそこそこの興味あり。他の人文、芸術、社会科学諸分野にはやや警戒態勢。

知識の広さ思索の深さより、視点と連合の独特さで勝負したい。

かわいい。なでりこはぐぐが好き。なでこりんちょされたい。ひょこりんちょしたりもぐりんちょしたりする。

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2件のコメント

匿名 返信

クリスチャンで長年のメンヘラですが、教会が当てになったことはありません。今でも当てにしていません。教会は数年来行ってません。教会と医療をごっちゃにしないほうがいいと信じて疑いません。私は教会(牧師)のせいでメンヘラになったので(診断書もあり)、もっと回復するまで教会とは距離を置くようにしています。
でも関野先生はがんばってらっしゃるんですね。新大久保のきれいな会堂(よく知ってます)を見て、少しでも心が軽くなる人が多いといいなと思います。教会にもできることはあると思います。一番大事なのは、牧師や信徒が、訪れる患者を穏やかに受け入れてくれることなんだろうなと。でも暴れる人だっているし、大変だと思います。教会は病院ではないので、みんなのための教会なので、そこは履き違えないようにしないといけませんよね。
執筆者のかたが非常によく勉強なさっているので、安心して読めました。教会の取り組みをこういうところで紹介してもらえることは、とても嬉しいことだと思います。
いい記事ありがとうございました。

もぐらクン 返信

記者です。コメント有難うございます。匿名様のご結論は、軽く触れる程度の関わりしかしていない当方が軽々しく疑義を差し挟めない、深いご経験の果てに出されたものと推し量ります。私個人は、べてるの家やラルシュの様な障害者のコニュニティに、一般の教会もそこから多くを学ぶべき高い規範性があると思っているのですが、現状それが稀有(特に日本では)な例に過ぎない事は否定しようがなさそうだと思います。

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