「一緒に濡れてほしい」の批判しかないと、「助けて」と言え,,,

nonameさん
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noname
さん

「一緒に濡れてほしい」の批判しかないと、「助けて」と言えなくならないか。

※元は「つぶやき」でしたが、皆さんの意見を聞きたくて「相談」に変えました。

先日、「一緒に濡れてほしい」という漫画のツイートがバズりました。
案の定、「怖い」「わがまま」「共依存」「道連れ」「負の連鎖」「自分のことしか考えていない」「あなたと私は別でしょう」というコメントをたくさん見ました。
僕は総合失調症ではありませんが「一緒に濡れてほしい」の気持ちは強いですし、その言葉は僕の今のSOSに強く含まれています。
だから、わかってはいたけれど、強い批判・非難の多さに、「助けて」と言えなくなるような不安を抱きました。



Twitterでは自由な表現は守られなければなりません。明らかな誹謗中傷やマウント、嘘偽りでなければ、自分がされて嫌な意見も、ましてや相手がしてほしくない意見であったとしてもいいというのがルールです。
漫画の元の本についても、市場に出ている以上どんな意見を言われて当然です。
そして「濡れてほしい」というお願いへの批判・非難も当然です。このお願いは、他者に自他の境界をぐぐっと近づけるような距離感を求めます。依存を求めます。共依存や搾取、負の感情をもらってしうまう事故も多く見られます。何より、人は誰もが孤独な存在であり、成熟するにつれて自分でそれを支えなければならないのにそれに反しているという、極めて幼稚なお願いでしょう。その辺、自他の境界がはっきりとできている人からの適切な批判が多いように見えました。拒絶反応を引き起こすくらい不誠実・不快だと言う人もいました。
さらに、こういった願いに応え続けてしんどい思いをした人の声や潰れてしまった人の声もありました。その中には対人支援職の方もいました。一緒に濡れることによるデメリットも軽くないのです。

一方で、そういった批判の対象となることで、「一緒に濡れてほしい」人が「助けて」と言えなるんじゃないか、と恐れています。
僕の実感を元に説明してみます。
まず、Twitterはパブリックな場です。つぎに、(僕にバイアスがかかっているかもしれませんが)理路整然とした批判も多く見られました。そしてそれが集合知としてなんとなく正しいとも感じております。そもそも大概自分でも「一緒に濡れてほしい」のおかしさを感じている人も多いかと思います。そういうことだから、Twitterで起きていることを見て、自分の「助けてほしい」はやっぱり人として間違っているしその感覚は正しかった、だから言ってはいけない、となる人は多いんじゃないかと思ってしまいます。
しかし、いくらたくさんの人に正しい批判・非難をされ、自分で無理難題だと感じたとしても、それが今の自分に一番大事であって譲れない部分の願いだから飲み込めなくて、袋小路にはまってしまいます。

「なるほど。しかしそれでも助けてほしかったら、周りを気にせずに『一緒に濡れてほしい』と言うしかないじゃないか。社会は広いし、面倒見のいい人が助けてくれると思うよ」という人もいるかもしれません。しかしここまで自分の要求がおかしいと思えるようなツイートを見て、言える人の方が少ないかと思います。
それにTwitter(というか外の社会)では原則として「助けて」と言いたかったらある程度の非難・批判を覚悟して言わなければなりませんし、その反論や擁護も言語化しなければなりません。しかし僕も、このように長々と書いていますがそこまで言語化能力がありません。かなり消耗します。僕でなくても、自力では自由な表現の場の批判・非難に耐える力や言語化能力を育むのが難しい人は多いでしょう。いずれにせよ、「助けて」と言えるようになるための元本を得るためにも「助けて」と言いたい、けれど元本がない故に拒絶の声に耐えられない、だからますます言えない、という悪循環も考えられます。



ケアの話は聖性化されやすく、搾取の構造や母性神話や自他境界の曖昧さといった議論を隠しがちだから、積極的に自由な表現が守られた広い場所で話される話でしょう。
一方で、同時に、広い場所だと批判・非難がいつの間にか議論に参加していない人のSOSを否定することはありえるから、そこは守られていいと思います。
それに「一緒に濡れてほしい」は解釈が大きく分かれるから、本当にちょっと寄り添う程度のものだってあるし、絶対に濡れたくない人や「濡れる」の概念を持てない人もいれば、まったく濡れてもOKな人や条件付きでOKの人だっています。ましてや「一緒に濡れる」という方法も数あるアプローチの一つすぎないはずです。そこまで一律に非難しなくてよい気もします。

僕は、人はたくさんの依存と自立を往復し、その過程で安心感や基本的信頼感を築きあげ、自分として生きてゆけるものだと思っています。そして、時には自分と相手が他者であったとしても、相手が成人であったとしても、自他の境界を狭め、自分を相手にとっての特別な他者として繋がり、自分の時間とエネルギーを相手に注がなければならない場面もあると考えています。負担は否めませんし自他の境界が築き上がっている人からすれば不快でしょうが、そんな属人的なアプローチだって、有効な助け合いの一形態なはずです。
(僕も、いろんな批判やそれを裏打ちするコラムや本や知的な人の話を聞いても、それ以上「一緒に濡れてほしい」は折り合えません)



今回のように「一緒に濡れてほしい」の批判・非難ばかりになるのは、一緒に濡れてほしい人のSOSを封じませんか。
それで「苦しかったら『助けて』と言おう」「困った時は誰でもいいから相談しよう」「援助力云々」と言う方が無理がありませんか。
自由な表現を制限しろとは言いませんがこのお願いも守ってほしい、と言うのはそれは無理なお願いですか。
「一緒に濡れてほしい」と人に求めるのは、そんなに人として間違っているのですか。
答えの出ない話かもしれませんが、みなさんの意見も聞いて、考えてみたいです。

まとまらない話で読みにくかったでしょうが、ここまで読んでくれてありがとうございました。
よろしくお願いします。

相談 一緒に濡れてほしい 表現の自由 支援要請

回答一覧

ユーザー810
ユーザー810
さん
ユーザー810
ユーザー810さん

私は例の漫画は言葉足らずながらその言わんとする心情は概ね理解ができます。
「アドバイスやサポートをしてくれる第三者も嬉しいけど、同じ当事者として向き合ってくれる同志がほしい」
と私は解釈しました。
医者にかかったとして、専門家として検査結果や治療法の選択肢を示されることも必要ですが、まず自分の辛さに共感を示してほしいと感じるのも人情として理解ができます。

ただ言葉足らずというか、漫画表現として危ういなと思ったのは、傘をさす人物と一緒に濡れる人物が同じキャラとして描かれている点です。
同じキャラで描くことで、傘を貸すのと一緒に濡れるのが二者択一だと受け止められる余地ができてしまいます。
これが別のキャラとして描かれていればすんなりと飲み込める人も多かったのではと私は思います。

質問者のコメント

寿司大好きさん、ご意見有難うございます。

僕は「同じキャラを描くことで〜」という観点はなかったです。僕は同じキャラであれば読者に「あなたは傘を貸すことも一緒に濡れることも選べます」という選択権と支援者としての当事者感を強く感じさせると思いました。でも、確かに強要や別の方法の選べなさも感じさせますね…。
今回に限らず、辛さを伝えるときの表現について、実は考えるべきことは多いかもしれません。

ホットミルク
ホットミルク
さん
ホットミルク
ホットミルクさん

回答を書くのは初めてで、独りよがりな文書になってしまったらすみません。
とても丁寧な言葉選びで賢く優しい方なのだと思い、なにか応えたいと思いました。

「一緒に濡れて欲しい」に批判するものばかり溢れているのはとても悲しいですがそりゃ大多数の人はそう思うのだろうなと思います。
ただこのツイートが拡散されてそれだけ辛い人がいる事を知る人が増えるのは希望のある話だと思いました。

一緒に濡れて欲しい、の意味によっても受け取り方はだいぶ変わるのだろうと思いました。
・一緒に不幸になって欲しい
・悲しみや苦しみに同調して欲しい
・そばで一緒に泣いて欲しい
いろいろだと思います。
どれを求めていたとしても支える側はとても大変な思いをする事になるでしょう。
だから支える側の知識や心構えについての情報がもっと増えればいいなと思います。
「1週間に1日だけなら一緒にいて話を聞いてくれる人を4人見つけなさい。」
という話を聞いたことがあります。
4人見つけるのはメンヘラの私たちにとっては難しいことではありますが、とてもいいアイディアだと思います。
週1だけなら支える側の負担も少なくて済みますし、支援者の心の回復させる事も出来るでしょう。
4人いれば共依存という閉じた世界にならずただ支え合うことができると思うのです。

少なくともそのくらいの距離で付き合わなければいけない重みのあるものだと支援者と被支援者、両方の理解があれば不幸が回避出来るのではないかと思います。

拙い言葉で相談者さんが求めたものとは違うかも知れませんがこれを回答とさせていただきます。

質問者のコメント

ホットミルクさん、ご意見有難う御座います。
お褒めの言葉に思わずニヤけてしまいました(´∀`*)

この件に限らず依存の要求は揉めやすいです。実は僕自身も批判を恐れて「助けて」と言えてない身であり、何か言いたくなったのもありました。でも皆さんの意見を聞き、相手の負担と心情も無視できないものであることも再認識しました。
相互理解と気軽な助け/助けられる状況作りとが同時に行わてほしいですね。

リダ(元だいず)
リダ(元だいず)
さん
リダ(元だいず)
リダ(元だいず)さん

こんにちは。回答失礼します。
あくまで独り言のような一意見ですが……。

僕も元のツイートを拝見しまして、濡れてほしいってどういう意味だろうと思いました。
というのも、あの雨が疾患や障害を表すと書いてあったので「雨に濡れる=貴方もそうなるがいい」みたいな風に最初はとれました。しかし、いやおそらく、書いた人にとってそうではなく、「わたしの苦しみをサポーター(恋人友人家族等)として一緒に分かちあって」という所謂恋人や家族にある「悲しみははんぶんこ」というような感覚だったのだと思います。

何が言いたいのかと言いますと、おそらくあの絵があまりにも解釈が難しく、また(あくまで予想ですが)違う捉えかたをされてしまったが故に起きた批判だと僕は思っています。僕が第一印象で思ったことと同じことを感じた方が「怖い」とか「酷くないか」と言ったのだと思います。
そしてそう非難された方々は、これもまたおそらくですが、分かち合い支えることに関しては絶対的反対ではないと思います。

あくまで僕の予想や想像の範疇でしかありませんが、この絵の非難は一理あると言いますか、解釈の幅が広すぎた(伝わりにくかった)がゆえに起きたもので、濡れてほしい派(分かち合い派)は少なくとも分かってるというか、声を上げにくくなる、というのは無いかなと思いました。
死なば諸共派に関してはわかりませんし、それは僕にとっていただけないと思うので割愛します。自己中ですみません……。

見当違いでしたらすみません。
乱文失礼しました。

質問者のコメント

リダさん、丁寧なご意見、有難うございます。

リダさんは「声は上がりにくくなることはない」との考えですが、僕が当事者でなら言えないです。僕の現状は依存的なSOSを発する状態で、今回の批判・非難の多さと擁護の少なさは既視感があります。
でもリダさんの分かち合いを支える点で絶対的反対にならないという予感もあります。
絵の解釈の多様さがトラップですが、その点に焦点を絞った落し所を探りたいです。

ダメじゃない
ダメじゃない
さん
ダメじゃない
ダメじゃないさん

おはようございます。
私もnonameさんの前回の投稿を読んだ時に該当のツイート(https://twitter.com/menhera_jp__/status/1060409670697807872?s=21)
を読んだのですが、漫画と言うのは色んな読み手がいて、それぞれ違った解釈をするものだと思ってますし、そもそもあの3コマと少ない言葉や文章で何かを伝えようとすることに無理があったのではないかな…と思いました。
作者からの補足が欲しいところです。

失礼なことを言いますが、はっきり一言で申し上げると「漫画が下手」「説明不足」私からの感想はこれに尽きます。(漫画と言うよりイラストやポスターの部類ですよね…?)
漫画自体「察して」に頼っているような感じを受けます。
なので、nonameさんの意見は作者に届くべきなのになぁと思いました。

相談に対する回答でなくて申し訳ないです。

質問者のコメント

ダメじゃないさん、回答でなくても構いません!ご意見有難うごさいます。

やはり漫画の解釈の多様さについて、皆さん同意見ですね。
ただ最近になって、元は統合失調症の雑誌が出典で、漫画はコラム内にあった可能性や雑誌内では解釈の方向が定まるよう編集された可能性もあるから、漫画としはあれで十分な気もしました。個人的にはRTにメンヘラ.jpの補足が欲しかったです。(あるいは我々のリテラシーの問題か…)

ユーザー810
ユーザー810
さん
ユーザー810
ユーザー810さん

追記します。
「傘をさすか、一緒に濡れるか」の選択肢は一般的にはありえません。
苦境にある人に寄り添うために同じ境遇になろうとしたならそれは一般化はできないレベルの献身です。
極端な例えですがコルチャック先生みたいなものです。それはそれで立派なものかもしれませんが真似できる人は多分あまりいません。
苦境にある人との関わり方でその選択肢を提示されるなら、私はそもそも近寄れません。

ですので同じキャラとして描くことにはそのような印象を与える危うさがあると私は思います。
もし添削する(私は漫画の門外漢ですが)なら、濡れる人と傘をさす人を別のキャラとして、雨に濡れる二人に傘をさす人という三者関係で描くという風にします。

またもし作者が「濡れるか傘か」の二者択一を訴えているのであれば、私としてはその要求はおもすぎるなあと思います。

だらー
だらー
さん
だらー
だらーさん

お前は何も理解していない。

>「一緒に濡れてほしい」人が「助けて」と言えなるんじゃないか、と恐れています。

じゃあ最初から「助けて」と言え。
「一緒に濡れてほしい」なんて自分と他者を区別できない赤子メンタルの回りくどい言葉を吐くんじゃない。

お前が言ってるのは、まるでお前が腕の骨を折ってしまって病院へ行き、そこで医者に「僕の痛みを知るために先生も腕を折ってください!」と言ってるようなものだ。もし医者が腕を折ってしまったら誰がお前の腕を治療するのだ?

骨折の痛みの話で盛り上がるのは、入院した病院の隣のベッドでギプスした患者とで十分だろうよ。

質問者のコメント

だらーさん、ご意見有難うございます。

前者について、「助けて」の内容が「一緒に濡れてほしい」であり、既に赤子メンタルの回りくどさを含みます。多くの批判はそこに集中し、本人も薄々自覚してるから言えないのです。なのでだらーさんの意見は「助けてと言うな」と同意に映りました。後者も、僕は「濡れてほしい」が「同じ痛みを味わってほしい」も含めて多様に解釈できると言っており、それのみだとは言ってません。

noname
noname
さん
noname
nonameさん

追伸・だらーさんへ。

初対面なのに「お前」呼ばわりや命令形を連呼されるのは、威圧的で怖くなりました。
また「一緒に濡れてほしい」は本当に解釈が多様であり、当事者と向き合うことを通じて当事者のもつ心身的・社会的な困難を理解し、当事者の立場に立ってほしい、という意味も強く含むのです。そして当事者は好きで依存的な要求を持ったのではありません。
確かにその要求はワガママと言われてもおかしくないし、負担も軽くないです。しかし要求そのものに対して煽るような内容のコメントをするのは、批判を通り越して攻撃に映ります。僕はそのようなコメントをされることを望みません。

強い憤りがあるのかもしれませんが、どうか攻撃的な言葉遣いと内容は避けて話してください。
よろしくお願いします。

ダメじゃない
ダメじゃない
さん
ダメじゃない
ダメじゃないさん

お礼読みました。
勝手な追記なので、この回答に対してのお礼は気にしなくて大丈夫です。
少し不安定な時の回答でしたので、なんだかきつい口調ですみませんでした。
たしかに、冊子か何かのの当事者のコラムにそえられた挿絵や補足的なポジションも考えられますよね。(私はそんな印象です)
そのコラムか何か、原文のようなものを運営さんから補足してもらえば、こんなにモヤモヤしたり荒れたりしないですよね…。

ところで、私はお寿司大好きさんの回答を読んで、すんなりと納得しました。
(私より後についた回答でしたので、なかなか言いにくかったのですが…)

私は、精神障害者が生きていく上では健常者からの支援や協力が必要だと考えているので(現在の日本では、障害者が障害者を支えるのには、どうしても限界がある気がします…)、
「せっかく傘を差し出してくれた健常者(例えば病院のスタッフ等)に、同じく苦しい思いをさせて障害者にしたいのかな?それだと共倒れで、結果的に誰も救われないのではないか?(精神面ではわかってもらえることで満たされるかもしれませんが)」
と言う解釈をしてしまいました。(くれぐれも注意してほしいのですが、批判等ではないです!ただ、私は第一印象ではこう感じたってだけです)

傘をさしてくれる人物と一緒に濡れてくれる人物が別々の人なら、「あー気持ちはわかる」となります。
私には障害のある友人ばかりいますが、やはり共感したり、当事者目線で話を聞いてくれる人は、それはそれで大事なので…。

「傘をさしてくれる人」「一緒に濡れてくれる人」
実際の世の中は、他にも色々な役目の人たち(「歩行者に対して何の配慮もせず、水たまりの上を走行し泥水をはねる車」や、「濡れたままだと風邪ひくよ、とタオルや着替えや温かい飲み物を差し出してくれる人」とか…)がいるのでしょうね。
と勝手に想像が膨らみます。

長文失礼しました。