相談というか質問です。自分は色々ショッキングなことがあっ,,,

Cさん
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C
さん

相談というか質問です。自分は色々ショッキングなことがあってから避けることや、人が集まってもろくなことにならない、とかがもう標語になっています。

でも自分は人を諦めているのでなく、ただ単に比較・勝負けのパワーゲームから降りたいと考えただけなのかもしれない、とさっき本を読んで思いました

パワーゲームでない、競争の外にある人との結びつきなら全然いい、と思います。

でも競争に始まり比較や評価を含まない他者とのつながり、というと、正直イメージすら湧きません。相手のみならず、自分を比較・評価することもしない、というのが想像できません。

また、本を読んで自分がかなり上下で人を見ている側なんだなということも薄々わかりました。今までの自分の優しさはただ下手に出ていただけなのかもしれません。

比較や評価の外にある他者とのつながり、というのは可能でしょうか?その感覚とはどんなものでしょうか?

相談

回答一覧

まめ
まめ
さん
まめ
まめさん

比較や評価のない関係…
これまでの文章を読んでいて、そういうのを求めてらっしゃるんだろうなぁ…と受け止めておりましたが。

まずは可否を言えば、不可能ではありません。
少なくとも私の周囲の一部、それから息子の親しい友人たちはそのようです。

息子を観察していて思うのは、「自分自身が比較や評価の土俵に決して上がらない」ことに徹しているから、自然と親しくなる人はそういう人になるっぽいのかな?ということです。
ただし、数は少ないですけれども。
でも、無理してお喋りしなくても沈黙があっても一緒にいられる、何ヵ月も会えなくても安心していられる、会いたくなった方がそれとなく連絡とってくる、そんな間柄なようです。

それから私はというと、私や周囲の人々の一部はクリスチャンなので、そういう比較や評価をすることは愛がないことであると聖書にあるので、自分達をそういうことをしないように律しています。なので、相手の長所を探すようにして、短所は愛で覆う…自分自身の短所を神様がそうして見過ごしてくださっているのであるから、自分も愛情をもって他の人の…そして自分自身(なんの改善の努力もしないとかではなく自分を責めないという意味で)の短所も見過ごすように努めています。

なんにせよ、気がつかれていることと思いますが、比較評価の土俵に上がらない、そうすれば、周囲に残る人間はおのずと選別されていくのではないかと思ってます。
そういう人たちとだけ、深い交友を持てばいいのです。(生活上はどうしても職場や親戚ご近所など浅くても社交上好みにかかわらず付き合わなきゃならない人々は存在しますのでその部分は諦めますけどもね)

質問者のコメント

比較の土俵に上がらないことに徹し、土俵にもちこむ人とは線を引く。シンプルで強力な考え方ですね。同じような相手に出会えさえすれば、道は開けることになります。これは取り入れたいです。
深いところで考えるなら、それに徹している=それを強く意識していることで、制限と自由のように表裏の関係を結んでいるといえます。そこに矛盾は起こらないのでしょうか。

鬱猫
鬱猫
さん
鬱猫
鬱猫さん

それは可能ですが、ある程度の評価は必要です。
親しくなりたい人の背景がわからないと、騙されたり、変なトラブルに巻き込まれるからです。
あまりガツガツせず、友達がいればもうけものという感覚ででかけると案外出会いというものはあります。
私が気の合う人がいると思ったのは習い事関係です。
先生はその道で生活をしている人なのでスキルが高く、また生徒さんも比較的余裕のある人が多いからです。
しかし、習い事にもいろいろありますので、閉鎖的だったりボスがいそうなところはすぐやめるよいにしています。

質問者のコメント

ご回答ありがとうございます。みんな簡単に人を信用しなくなっていくのも、1部の極端な例のゆえで、はがゆいことですが、そもそも安全かという評価は必要ですね。安全は確保した上でも、価値がつきまとってきますが、余裕のあることやボスの有無など、環境的なことに目を向けなければいけないことからも、やはり比較や評価とはどこかで手を結んでいなければならないですよね。。

まめ
まめ
さん
まめ
まめさん

だいぶん脱線してました、失礼しました。

心の中から『比較評価全て』を消し去るのは他の回答者さんも仰るように不可能だし不便ですよね。凄いとかちょっと困るとかいう評価っていうか感想みたいのは出てきますものね。
『自己評価ありき』…たしかに、だからこそ『律する』行為ができるわけですよね。

『比較評価を越えるもの』ですか…

…答えになるかわかりませんが、『比較すること』について息子が言っていて目から鱗だったことを書いてみます。
『誰かを誰かと比較したからってだから何?何にもならないよね?その人はその人であって他の誰かとは全く違う存在なのであるのだから違って当たり前で、そんなことを考えてたってなんの役にもたたない。その人はその人であるだけで、何かが秀でていたり劣っていたりしてもそういう事実が存在しているというだけだ。』
…哲学かぶれってやつですね。

質問者のコメント

こちらこそ直球で申し訳ないです。あとまめさんの意味する所をその都度理解できているとも思っていません。そこは頭の限界です。
息子さんは賢そうですね。役に立つことには価値を認めているようですが、それは人の役に立つの意味か、自分の利益追求の役に立つの意味か気になります。

比較評価はなくせないとして、考えていきます。これは比較をただ否定する類の情報はエセ、ともいえますね。

まめ
まめ
さん
まめ
まめさん

あ、単語が抜けてました、ごめんなさい。『誰にとっても役に立たない』って言ってました。

質問者のコメント

役に立たないという否定をすることは、何かの役に立つことをするべきだと考えているということなので、「比較が役に立つ」と捉えたのではありません。わかってます。

字数制限もあり言葉足らずですみません。また、まめさんが既に問題にしていないレベルのところで僕はドツボにはまっていて、そのため言葉が一方通行な感じがしています。ありがたいですが、甲斐性もほどほどになさってくださいm(_ _)m

ダメじゃない
ダメじゃない
さん
ダメじゃない
ダメじゃないさん

おはようございます。

私の友人は私よりだいぶ年上の方が多いですが、私のことを見下すような態度はとられたことがありません。(色々と至らない点を大目に見てくれているところはあるでしょうし、10歳近くかそれ以上違うので、さすがに私も同年代に対する態度と全く同じくはできませんが…ちなみに友人は女性だけでなく、一人は男性です)

比較や評価は、相手の長点を見て認めているのでいい意味でしていますが、お互いにお互いを尊敬し合う感じなので、それが原因で角が立つことはありません。
「すごいなー」
「見習いたい」
って感じです。いい刺激を受けることはあります。

趣味で少し悔しいなってぐらいのことはありましたが…お互い教えたり教わったりして、やはりいい刺激になる程度の、楽しい範囲でした。

あとは、自ら集団に加わることは少なく、興味を持った人とマンツーマンで親しくなることが多いです。
私とAさん、私とBさんで交流していたら、たまたまAさんとBさんも交流があった、みたいなパターンが多いです。
結局、多少は自分と似た価値観や、似た部分のある人としか仲良くならないからだと思います。
もちろん、AさんBさんで会っているところに誘われれば行きますが…集団行動って感じとはちょっと違います。

長い付き合いだとぶつかることもありますが、なるべくおおごとになる前に距離を置いて、冷静になったら戻ります。
全員それができる人たちです。

Cさんの場合、「自分が常に下手に出過ぎて疲れてしまう」のが原因なのではないでしょうか…と個人的に思いました。

質問者のコメント

こんばんは。確かに評価には損得勘定だけでなく、単に「すごい」「綺麗」などの領域もありますね。最初は自分もそういうところから入り、いつしか凡庸にまみれて今があると思います。やはり、比較や評価は基盤としてあるんですよね。その上で、丁度いい領域に収まり続けられるかどうかで、、でもその丁度いい領域こそどこかに犠牲を強いている、と考えてしまうんです。椅子取りゲームのように

ダメじゃない
ダメじゃない
さん
ダメじゃない
ダメじゃないさん

すみません、書き忘れです。
だいたいのことは大目に見ますが、それでも相手に言いたいことは、なるべく伝えます。
Cさんは、「相手は自分より上だから」と言い聞かせて、我慢することも多かったのではないでしょうか…。

質問者のコメント

回答が2つあると、お礼の文字数が2倍になっていいですね。すみません、どうでもいいことです。
下手に出ることについては、その通りです。突き詰めすぎて関係自体を放棄したりします。対等がいいけれど、対等なんてあるのか?とさえ思います。これについては、この質問に回帰すると思います。

まめ
まめ
さん
まめ
まめさん

お返事ありがとうございます。

『それに徹している=それを強く意識していることで、制限と自由のように表裏の関係を結んでいるといえます。そこに矛盾は起こらないのでしょうか。』
ということですが。

『制限』と『自由』…表裏だと思いますか…
例えで言ってみますが、友達と遊ぶとき、『自由に』楽しく遊びたいとは思うものですが、その『自由』って、本当の意味で『各自が自由に振る舞う』をしてしまったら、それは楽しめる場になると思いますか?
ゲームをするならゲームのルールを守ることは必要だし、カラオケなら順番を守ったりある程度上手にやってくれないとちょっとしらけちゃったりしますよね。
どんなくつろいだ場であっても、ある程度のルールという『制限』というものが暗黙のうちに存在することは実際問題必要なわけで。

つまり、どんな場であっても、互いに居心地のいい場所にするためには、『制限つきの自由』が約束されていないと実はうまくいかないのですね。

…ということで、『自由と制限は共存しうる…しなければならない』、そうでない方が、混沌という不協和音を産み出してしまう困った状態なんですね。

答えになっているかしら?

質問者のコメント

確かに比較の土俵を禁止するのも制限で、そこから自由が生まれるとします。でもこの制限自体は比較を強いる世の中の反動として現れています。もしも、比較を強いる世の中がなくなれば、比較をしないという制限も消失し、そこからの自由=楽しみも消失するのではないですか?それではまるで、世の中の裏をかいて楽しんでいるようで、悪徳な感じがしてしまうんです。深く考えれば、の話ですが

まめ
まめ
さん
まめ
まめさん

なんか、例え話だけで終わっちゃってるような文章になってましたね(汗)

…それでもって、自分の精神世界も、自由奔放になっている状態って…よくよく考えると、滅茶苦茶になりますよね?
思考の文脈や、筋道、自問に自答、、、そんな風なルール付けを持って思考してない状態ってあり得ないですもんね。

そういう風に考えると、『~に徹する』とひとくちに言っても、『思考のルール』の一部がちょっと変更になった、っていう程度ものなんじゃないでしょうか?
って、私は思うのですが、いかがでしょうか?

…今度こそ、〆だといいんですが…

質問者のコメント

最初の質問は比較評価のない関係なんてあるかで、回答は比較評価を前提にした考え方でした。比較評価を前提にする限り、比較評価の弊害もどうしても起こると思うのでそこを付け加えて返信しました。その次に、表裏の話になりましたが、制限と自由が表裏かどうかについては、比較評価が前提にあることの是非とは関係が見えてきません。とにかく、比較評価は前提だ、という部分のみ切り取りたいと思います。

まめ
まめ
さん
まめ
まめさん

『そこからの自由=楽しみも消失する』
なるほど。

確かに、『そこから来る楽しみ』は失われてしまうかもしれませんが…

ただね。
『自由』も『楽しみ』も、たったそれ一種類しか存在しないし。

あと、よく言われる『子供時代の自由』っていうものもありますけれども、成人することで失われますし、それには一抹以上の寂しさを感じなくはないですけれども、でも、『人生の楽しみ』は損なわれ切ってしまうことはなくそんぞくしつづけるわけで。

…つまり、楽しみの種類も自由の種類も、年齢や置かれる環境、果ては同じ年齢や置かれる環境であっても受け取り方が変化するだけで、移ろうものである、いわば『生き物』であるので、それのうつろいに罪悪感を感じる必要は無いように私は思うんですけれどもね…なんか、そういったものを『擬人化』して観てませんかね?ってちょっと感じたりもしたりしてますが…気のせいか…

あ、もちろん、cさんのうけとり方を否定するつもりで書いてませんので、そのように取れたらごめんなさいね。

質問者のコメント

言いたくないですが脱線してます。。。僕も正しく理解してほしいから理詰めで書いてますが、理詰めも結局穴だらけですから、気になる点は出てくると思います。でも、僕は純粋に比較評価を超えたものがあるかどうかが知りたいだけで、僕の「それは比較評価ではないのか」ということに対しては、ないならないで「比較評価はあるよ!そんなの付き合い方の問題だよバカ!」とさえ言われても僕は納得するんです。