『助けて』と言おう。誰に? ・ ・ ・ 非常に長いです(60,,,

nonameさん
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noname
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『助けて』と言おう。誰に?



非常に長いです(6000字超)。
日々考えた小文をまとめたもので、「つぶやき」に近い「相談」です。
読みにくさもあるので、どうかお時間のある方だけ読んでいただければ幸いです。



 僕は基本的に「助けてほしい」と言えません。
以下に、自分なりに言えない理由について書きます。

 僕は大人であるけれど、誰かに身を預けられるような支援がほしいです。そう思い至ったのは、高校入学のころに発生した、うつ病のような症状と共に発症した、生きている実感と安心感と信頼感の欠落が原因でした(詳しくは過去の相談をご覧ください)。けれどある程度大人の身体になった人間が、自立へのカウントダウンが迫る時期に、子どもに戻るような手厚い「助けて」を言うと、高確率で「甘えるな」「みんなそうなんだよ」「自分でなんとかするしかない」「大人になるんだ」「自立するんだ」とを迫られます。これを言うのが遅くなってくると、「なんでもっと早く言わなかったの」「(自分が何をしたらいいのかわからないという問いに対して)親や先生のせいにして自分で責任を負わないで生きてきたからだよね」「まだそんなことで悩んでいるの」「愛情の穴は自分でなんとかするしかないんだよ」「みんな孤独なんだよ」「君の悩みは小さい」という、どこまでも正しくて厳しい言葉の前が返ってきやすいです。直前の義務教育期にあった全人的寄り添いプランがなくなり、自立プラン、孤独は自分で埋めようプランを渡されます。
 わかります。僕もその厳しさは大事だって思います。というか自分でも甘えているなって思います。僕も大人になろう自立しようという気持ちは同じです。それに若い時期は先延ばしもやり直しもできませんし、心身も成熟してあなたがた大人と同じ立場になりつつあるし、そう言いたくなる……というか言わなければならないのもわかります。けれど、僕はその言葉に追いつけませんでした。そうなれたらいいな。けれどそうなれないな。そこで自立に手を伸ばすのは、僕にとって僕自身を裏切る嘘でした。本当に申し訳ないけど、どうしてもあなたたちのように思えませんでしたし、むしろあなたがたの方から僕に近づいて欲しいです。社会から一時的に僕を切り離して、子どもに戻る僕、甘える僕を許してほしいです。自分がどうしたいのかを共に考えたり考えられるだけのなにかを支援してほしいです。人を信じさせてほしいです。そうやって自立のための元本を共に作ってほしいです。「自立」という人として避けられないライフイベントの過渡期に「依存」を求めることはものすごく難しかったです。大人たちの「自立」前提の意見を受け止める力も、自分の想いと要求を整理し伝える力もありませんでした。というか今でも耐えられない。やめてほしかったです。
 また、大人になってカウンセリングを受けても、どうしてもカウンセラーに情緒的な関わりを求めたり、そのような場所がどこにあるのか聞けないです。そういうものを尋ねたら「カウンセリングはそういうところではありませんので」「私もそう言う場所がどこにあるのかわからない」と言われます。そこから先のアプローチの仕方がわからないです。
 だんだん自分のして欲しかったことは言えなくなりました。「助けて」は言えませんでした。

 2015年の鎌倉市図書館の「学校がつらい子は図書室へ」のツイートでは、多くの賛否両論な意見・感想があがりました。そしてそれに関するツイートや個人ブログでは、誹謗中傷ではなく、常識的に考えられる人や知的な人、親の立場にある人、対人支援に関わったことのある人らが、自身を含めた一般的な人の立場と客観性・論理性を踏まえた上で「何もできない」「どうすればいいのか本当にわからない」「人は人を救えない」「あなた(何かしたいという人)は相手にとっての特別な関係になることに耐えられるのか。多くの人には無理だろう」という意見・感想を多く見ました。
 2018年のメンヘラ.jpの「一緒に濡れてほしい」のリツイートでも、上記の方々による上記のような批判や、「心の穴は自分で塞ぐしかないんだよ」「ニコイチの関係を求めないで」という道連れの印象に対する批判が多く見られました。「私ならこうは言わない」「あなたが決めつけつけるなよ」「愛はそういうものじゃないよね」という声もいくつか見られました。
 僕は図書館へ行くような子どもでも精神疾患を持つ人でもありませんが、自分の「助けて」に対して、両者のような常識的で説得力のある批判を先に見てしまうと、どうしても「ああ、自分は助かりそうにないな」「自分はそこまでわがままを言っているのか」「そういう自分を受け入れられない。一人でこなすには耐えられない」と思ってしまい、「助けて」と言えなくなります。「一緒に濡れてほしい」に関しては、相手に濡れること—誰もができれば避けたいと思って当然のこと—をを求めているわけだし、批判はもっともです。一方で、辛い状況の中で出てきたその人にとって命がけで正直な言葉が「一緒に濡れてほしい」であれば、そこで皆が批判することは抑圧にはたらき、声を上げられない人を生むのではないか。そう考えるのは、僕も自分に正直な言葉で言えば、「あなたに無条件に寄り添ってほしい」という似たような言葉が出てくるからです。特に、言語化したり相手の立場を考えたりする余裕を持つ環境にいない時は、ますますそれ以外の言葉が思い浮かびませんでした。そして経験上、それを言えば「一緒に濡れてほしい」と同じような批判を浴びます。なので僕は言えません。

 「助けてほしかったら、自分から相手を助けよう」という話を持ち出す方もいました。話を聴いてくれる人がいないならあなたが相手の話を聴けばいい。居場所がないならあなたが相手の居場所になればいい。守られたいならあなたが相手を守ればいい。お腹が空いていたらあなたが自分の食べ物を与えたらいい。あるいは相手に何もできなくとも、ただ困っている相手をそのまま受け入れるのもいいかもしれない。いずれにせよ、そうすることでまずわずかでも相手が助かる。そして自分が相手に必要とされることで自分の居場所を得たり、心が回復した相手から助けられたり、周囲が自分たちをみて関わるようになる。わらしべ長者のような流れが発生します。また間接的ながら自分へのケアとなり、この循環が広がってゆく。僕は、こういう話は賛成しています。
 けれど、相手を助けるどころか、ただ相手の話を聴く程度の体力・気力・諸能力もない時にこれを言われるのはしんどかったです。相手からすれば「魚をほしがっていたら相手に魚を与えましょう」ということなのでしょう。でも僕は、まず魚を食べたかったです。あなたの魚を分けてほしかったです。もしくは魚をくれる方を教えて欲しかったです。まず魚を釣っていられるだけの力を体力・気力を養って、それから釣り方を覚えたかったです。これは人によっては「魚って何?」からスタートし、味わい方や調理の仕方、魚のいる場所、テーブルマナー、あるいはそういったものを身につける前提となる安心感やしつけ、言語化能力を求めたり、それを妨げる鬱症状や誤学習を外すとかになるのでしょう。一方で、この循環に関わらない(関われない)人はフリーライダーとみなして距離をおく人は多いように思います。あるいはここを育む難しさがわかっているから、相手がこれを求めるなら距離をおくと決めている人もいるでしょう。僕もこれはどう言えばいいのかよくわかりませんが、その関係に加わるきっかけがないと思った当時の僕は、「助けて」と言いづらかったです。
 
 別に、そういった人たちも数ある人間のうちの一部であり、彼らの言葉なんて無視して、積極的に気軽に「助けて」という方がいいのかもしれません。現実には声を上げないだけで、別の他者の問題を受け止められる人や問題解決する力を持った人もたくさんいるでしょう。しかし、自分の困りごとをリアルで相談しても、インターネットや書籍で探してみても、上記の方々による説得力をもった意見・感想が嫌でも目に入ります。
 何事も言わなければわからないにしても、リアルでそういう経験が積み重なると、人に相談してもどういう結果になるのか予想しやすくなります。僕の場合は求めるものが社会通念に反しているようだし、相手の言ってることに理があるように感じるから、どう考えても自分の望む援助は受けられないのでは?という気になります。自分が助かった先の未来が予測できないのならば、僕は言えません。



 もちろん、「『助けて』と言おう」には、いろんな視点があり、言う人によって意味が違ってくるのでしょう。
 まず、多くの人は言わなければわからないという大前提の意味があるでしょう。そして言ってみたら案外助かって解決するという場合が多いし、まずは言ってみようよという意味。そこから転じて言えば助かるという成功体験や、たとえ拒絶されても相手が話を聴いてくれたり共にいてくれることで少しずつ「拒絶されても自分は大丈夫なんだ」「別の方法でもいけそうだ」「支えられている」という実感が湧いてきて結果的に助かるという体験、拒絶されて傷ついているときに支えられる体験を通じて、自分を救うスキルの習慣化を促す意味。
 逆に、人があれこれするには重すぎたり、理解が得にくかったり、時には偏見による誹謗中傷が飛んできたりする時があるから、何度傷つけられてでもひたすら助けてくれる人や専門家に当たるまで探せという「ガチャ」の意味、あくまでも緊急的で一時的な避難所を得るためとしての意味、そこから転じて、「様々な避難所で心身を養っては、現実の苦難を経験する」というサイクルを繰り返しながら、物の見方・考え方の転換や自分で自分を支える力を促すという意味、すでに助かりようがないような場面において、何かを悟り、苦しみの中から意義を見出したり、あるいは苦しみを抱えて生きていく道を受け入れるといった新たな生き方に目覚めるという意味、言った人だけでなく支援者ですら予期しなかった望ましい結末や妥当な結末に発展することを見込んだ意味、結局何もかもブラックボックスであり、全部含めて正解も不正解もないし、だからこそやってみようよという背中を押す意味もあるでしょう。
 ただそこまで言うと、もはや気軽でもなんでもないじゃないかと思わずにはおれません。「助けて」と言っているのに助けてもらえず、石すら投げられることもあり、人も自分も信じられなくなって「助けて」と言うための元本が削がれてゆく。元本も割れるから、「助けて」と言いたくても言えない。あるいは最初から元本が割れていて、「助けて」と言うことすらできないから助けてほしいのに、元本がないから、言えない。これでは鶏が先か卵が先かの話になります。そして言った後の困難にも耐えられそうにないから、言えない。
 「"早め"に『助けて』と言えるようになることで"軽い"うちに助けられ、問題を重症化させない。少しずつ救援力や受援力、(断られても自分は大丈夫と言える)自肯定感を育めて、それが習慣化する。そのような関係が広まる。」と考える人もいるでしょう。けれど自分の抱えた問題が”早め”か"軽い"かなんて運次第でもあります。遅くなってから自分の問題を自覚したり、周りが取り合わなかったり、一発目の問題が既に重く、今社会問題レベルで「どうしたらいいのだろう」という話になってる場合はそうもいかないはずです。
 いずれにせよ、今の僕には「助けて」と言う難しさにリアリティがあります。そして「助けて」と言うには、たとえ何度も何度も何度も言い続け、何度も何度も何度も断られ続け、時には誹謗中傷を浴びせられ、人や未来に信頼が持てなくなったとしても、それでもなお耐え続けるだけのマッチョさや自立性や人間的成長が条件であるというのならば、僕は言えません。



 長々と「助けて」と言えない理由を言い続けて来ましたが、当然ですが「『助けて』と言おう」は「相手の『助けて』を聴こう」でもあり、聴ける相手がいなければ成立しません。そして基本は「自分のできる限りでやる」、それ以上は「力のある人や組織に繋げる」です。だから「助けて」と言う側は求めすぎてはいけません。そもそも僕の言ってることは、わがままで、他者の自由な発言を限定しようとしているように見えてもおかしくないでしょう。そこは自分で言っていて引っかかります。
 それでも今の社会で「助けて」と言えるか言えないかだけに絞っっていたら、こういう疑問は湧いてきます。大半の人は相手を困らせたくて「助けて」と言っているのではなくて、既に自分でもどうしようもないから言っているに過ぎないでしょう。本当に困り果て、でも勇気を出してやっと言ったのに、相手に上記に書いた言葉を言われたら、僕なら心は追いつきません。ましてやそんな経験を重ねたら、嫌でも何も言えなくなります。
 一方、相手も助けようにも既に自分のできる範囲を既に超えており、かつ周囲も余裕がなく、行政も様々な機関にも繋がりにくかったり頼れない、専門家でも決定打が打ち出せない、そもそも誰に何をどう繋げればいいのかもわからない、本当に誰もわからないようなケースはたくさんあります(例えば、行政や相手の所属先が非協力的で、こちらも多少の交渉力や法知識、外の支援組織の調査と接続、すべて断られた時の慎重な対応が求められるもの。相手の学習能力のレベルに降りてゆき、こちらが上げてゆく必要があるもの。相手の秘密を知ることになり、必然的に重要関係者となることを避けられないもの。自己破壊がキツく、長期的に積極的にこちらから向き合わないと心が動かない人から発せられるもの、加害者の加害がキツく、こちらが警察に繋いだり受援者を探す必要があるもの。愛着の対象・保護者の役割を求められるもの。深い共感や深く相手をわかろうとする努力を求められるもの。ただ「いる」役割を求めるもの。不確実性の海に飛び込むことを求められるものなど)。落とし所を探そうにも、落とし所として微妙過ぎる案しか出せない、どうあがいても相手に耐え忍ぶことを求めざるを得ない場面もたくさんあるでしょう。蓋を開いたら知らなければよかった社会の闇を知ってしまい、傷ついたり相手を軽蔑してしまう人もいるでしょう。
 原則は「自分のできる範囲で助ける」。けれど今は、相手がそれを超えた問題を抱えたならば助けてたくても助けられないし、問題の発生源も抑えられないから、結果として「助けられない」。そして年々そんな悪循環が広がっているようにも感じます。
 そうなると、人に「『助けて』と言おう」と言うのも気軽にできないように思えます。私は「助けて」と言われるのが怖い、私は「『助けて』と言おう」なんて口が裂けても言えない、そういう人は、実は多いんじゃないでしょうか。



 こういったことを考えてしまうと、世の中で言われている「『助けて』と言おう」がいったい誰が誰に向けて言っているのか、訳がわからなくなります。というか、僕でなくても多くの人が、薄々近いことを考えているんじゃなかろうか、とも思うのです。僕には安心して「助けて」と言える人や場所が本当にいないし、わからないし、「助けて」と言うための元本もないです。そしてこんなだから、僕は誰かの「助けて」を聴くこともできないように思います。僕にとってこの標語は、どこまでも無縁のようで、虚しさを覚えます。

 僕は、昔ほど切実に「助かりたい」という思いは失せました。諦めたのかもしれません。それも助かった例の一つかもしれません。けど僕は、それが良かったとは言えません。そう言う意味では未だ助かりたくて、この質問文を書いたのも何か信じるきっかけがほしくて、悪あがきしているのかもしれません。また、純粋に他人がどう考えているのかに関心もあります。こう言うことを考えている人は少なくないだろうし、自分なりの答えも出しやすい気もしますが、なんせ僕が地獄の釜の中を見たくなかったので、聞くに聞けませんでした。あるいは、既に「助けて」ということに半分冷めている自分に対する供養、こういうことを考えることに疲れた自分に対する踏ん切り、整理かもしれません。



「『助けて』と言おう」は、誰が誰に言ってるのでしょうか。
あなたは「『助けて』と言おう」と言えますか。
あなたは、誰かの「助けて」という声を聴けますか。
そもそも、あなたは「『助けて』と言おう」と言えますか。
あなたはこういうことをどう考えていますか。

答えのない問いですが、もしよろしければ、あなたのご意見を聞かせてください。

相談 助けて SOS 「助けて」と言おう

回答一覧

羊男
羊男
さん
羊男
羊男さん

様々な「助けて」がすべてごっちゃになっているなと思いました。
非常に残念なことですが、人間の感じる苦しさや困難を一から十まで全て丸ごと背負ってくれる他人は存在しません。
しかし一くらいなら手助けをしたり苦しさに共感を示したりすることができる人はそれほど少なくはありません。

私はこんなふうに考えて、この人ならこれを頼めそうだ、この問題は医者に相談しよう、など分けて助けを求めます。それでも言えないことや助けが得られないこともありますが、他人は私を助けるために存在しているわけではないので仕方ないと諦めるよう心がけます。
また他人が困っていれば、自分ができそうな範囲で手助けをすることもやぶさかではありません。

相談を拝読して、「助けて」が0か十かで極端になっているなと感じました。
この世界で十の救いを提供できるのは宗教くらいのものです。どうしても0か十かの思考から抜けられないならいっそ信仰に期待をかけるのもありだと思います。

質問者のコメント

羊男さん、お返事ありがとうございます。
他人は私を助けるための存在ではない。その人にそれ以上助けを得られなければ仕方がない。それは解ります。ではあなたはそのSOSを断念しますか削りますかと言われたら、多分できないんです。抵抗があるんです。もしこれだけはしてほしいと考えるSOSを面と向かって「極端だ」と言われたら、言えなくなります。自分でももどかしく、ここに何かがあればと思います。

まめ
まめ
さん
まめ
まめさん

私は基本的に「『助けて』と言おう」と言うスタンスです。
自分に対しても他人に対しても。

ただし、「自分の好みの助けが得られるとは限らない」という条件付きです。

そもそも、「人に助けを求めなければならない状況になっている」というのは、「自分の好みなどの自分自身の想像の範疇での助けではもうどうにもならない状況になっている」ことなんじゃないかと思うんですよね。
予測が簡単につくくらい簡単な方法、自分の希望に簡単にあった方法が存在するならとっとと自力でゲットできちゃって解決してるでしょう。
つまり、腹をくくって自分の拘りの範疇からはみ出して行くしかないんじゃないかと。
まぁ、その選択をしないという選択をするのもその人の自由であるし、私もそういう自由を選択してた時期がありますのでそれはそれでいいと思います。

私が今通っている医者も、自分にとって百パーセント納得のいく方法ではないですが、経済的、地理的、専門家の不在、によってそれは無い物ねだりなので諦めている部分があります。
何もしないでいて悪化したので偉そうなことは言えませんが、やらないよりはマシになってます。
助けを求めてよかったと思ってます。

…私の考え方はこんな感じです。


質問者のコメント

まめさん、お返事ありがとうございます。
実は、僕は最近になって自分がしてほしい「助けて」を言うようになりましたが、それと同時に、どこかまめさんと似た考えも頭にあります。先がわからないということはまた一種の希望でもあるし、何かが動けば、進めば、と言う感じです。とはいえ自分好みの助けが得られればとも思います。救援要請で言う「好み」は「ニーズ」の側面もあるはずだ、と漠然と考えているからかもしれません。

鬱猫
鬱猫
さん
鬱猫
鬱猫さん

何をどう「助けて」ほしいのか言わないとわかりません。
それから言う相手です。
助けてくれそうな人を見極める、これが難しい。
嫌がった人にはあまり期待しないことです。

質問者のコメント

鬱猫さん、お返事ありがとうございます。
何をどう…よくわかりますが、正直それが言えないことも助けてほしい要因の一部分でもあるので、無いものを出すような難しさを感じます。「わかりません」も普通の表現でその通りだけれど、いざ目の前で言われると僕なら固まりがちです。一歩前進して「私の言語化を促してほしい」「受容的共感的に聴いてほしい」と伝えられたらいいかもしれませんね。人の見極めに関しては同意です。

羊男
羊男
さん
羊男
羊男さん

これだけはしてほしいSOSとは具体的にはどういうものでしょうか?

質問者のコメント

SOSは人によります。僕の場合だったら、具体的に言えば「成人の私が、あえて子どものように、のび太のおばあちゃんみたいな人の元で安心感と基本的信頼感を育み、それを元手に自立したい。安全基地として支援してほしい」です(これも抽象的で申し訳ないのですが、今の僕には以上言語化できません)。これも求めすぎに映るでしょうが、僕にとってはこれが最低限です。そういうSOSです。